「わかって欲しい」のパラドックス

 inspired by 「わかって欲しい」のメンタルヘルス - タケルンバ卿日記
 で、何を書くべきかよくわからないが。
 私は、人に自分を「わかって欲しい」と思っているかというと、どっちかといえば、そう思っている、から、ブログとか書いているというのはある。
 けど、どもそのあたりが暗い。薄暗い。
 みなさんに私はわかりませんよ、という感じもしない。私は凡庸な人間だし、というか複雑な人間ではない。
 というか、つまらない人間なので、わかろうとする意欲が惹起されないということか。ほいで、それがわかって欲しい、との間で矛盾するのか。
 それはそれとして。
 これは、嘘とか言われるかもしれないが、私は、これだけは伝えようと決めたら、伝えるように表現することはかなりできるんじゃないかとは思っている。人にわかるようにチューニングするというか。そのあたりはとりあえず生きるためには必要な技術だったし。
 で、そういうとき、実は、あとでどっと疲れる。
 人にわかってもらうというのは、疲れる、というのがある。
 というか、わかって貰える部分をそういうパッケージにしてプレゼントする自分は、ある意味他人なんで、自分自身に戻ると疲労と自己嫌悪みたいのでぐったりする。
 それでも、生きているのだからそのくらいはしなきゃねというのはある。
 で、そういうぐったり疲れるを除いてなんとかなんないのかとは思う。というか、そういうあがきがブログとか日記かもしれないし。
 あと、わかる人にはわかるだろうか、それはそんなものかな、とか。ただ、それでも誤解の空回りみたいのはある。
 虚偽や嘘、というほどでもないけど、自分が、ある種、本当の自分みたいのを生きてないし、生きられもしないし、表現もしない、というのはある。というか、私は、自分探しとかしない。別に本当の自分が見つからないということはない。
 まあ、うまく言えないんですけどね。
 うーむ。
 なんというのか、自分が持っている情感というか感覚が、言語からはみ出しているんで、およそ言語化すること自体が苦痛っていうのはあるか。
 少なからぬ人が言葉にならない思いというのを持っているだろうけど、自分っていうのはそーゆーのでできているから、わかってもらおうとするとき、先験的に、だめだよな、じゃあって思う。
 うーむ。
 ブログも随分書いた。読まれもしたと思うし、読まれない部分もあった。それはそれで。でも、あらためて、で?と問い返すとよくわからない感じがする。
 オカルトみたいなこというわけじゃなくて、比喩なんだけど、そういう言葉にならない感覚は、それなりにあがいているだけでなんかどこかに遠く時空を超えて伝わるような感じはしないでもない。