加藤周一かあ

 猫猫先生加藤周一を讃える - 猫を償うに猫をもってせよ
 私の世代はみんな普通に加藤周一を読んだものだった。
 これとか⇒「 雑種文化 日本の小さな希望 (講談社文庫 か 16-1): 加藤 周一: 本」
 ご健在みたい⇒加藤周一 - Wikipedia
 私は当時、高校生だけどね、加藤周一を読んで、あ、こいつバカだなと思った。写真の顔見て、ぐへぇまたイケメンですかと思った。左翼のイケメンオジサンというだけで、オレはもういいよ感がいつもある。
 今思うと、吉本隆明を読んだのは院を出てからで、その頃は、梅原猛小林秀雄山本七平森有正大塚久雄とかなんか左翼からちょっとずれたところを読んでいた。というか、私の世代からすると左翼、もう、終わりにしてくださよ、ほんと、という感じだった。新左翼と左翼の差はおしゃれの差くらいなものかとも思った。
 今は、うまく言えないが、そのあたりはまるで関心ない。加藤周一も振り返って読み返してみたい感じがする。歴史として。
 日本の近代史において、左翼というは実態は、オシャレというか、モテとインテリが結託した奇妙な階層的な集団だった。田舎娘を定量的に投げ込んでいたから、みんな女経験が豊富で、つまり、そういうインテリでイケメンで、女が食えていいな、おらもああなりてーだ(ダンパ、涎ぇ)ということで必死で左翼になったというのがくずれて全共闘からフリーセックスの世界になった。
 私はそういう世界がバカみたいに見えた。というか、以前にも書いたけど、私は普通に大衆のなかでおやじやおばさんの戦争の内側の体験を聞いたり見たりした。団塊世代みたいにGHQ洗脳を受けなかった。幼かったからというのと、なんというのか、子供って愛情がわかるじゃないか。大人たちは大人でそこにはいろいろな経験を凝縮した愛情みたいなものがあった。