人生の折り返しとか

 村上春樹の「プールサイド」もそれなりに感慨深かったが。
 ⇒極東ブログ: [書評]回転木馬のデッド・ヒート(村上春樹)
 このところ、ああ、50歳、天命というのはこういうことかと思うことは多い。漱石先生の年齢を超えてしまったというのは、けっこう来る。
 ⇒極東ブログ: [書評]明暗(夏目漱石)
 太宰や三島が死んだ年齢を超えたあたりでも、いろいろ思った。まあ、自分などは凡庸で愚物なのでどうでもいい存在だが、自分の側からみると自分の宇宙はここにしかない。で? みたいな思いのなかで太宰や三島の自死をつらつら思い、そして思った分の結論はあったというかあるにはあった。
 漱石先生の年齢は、それとは違う、ずしんというものがある。漱石の業績のそのすべてが50歳前か。いや、それに肩を並べんとかそいうことは微塵も思わない。そうではなく、ある意味で、漱石の業績が完璧に理解できる(完璧なわけはないのだけどね)、みたいな、ああ、人生オワタ!というか。漱石先生はここで人生を終えたのかというか。
 51歳にならんとする私は、漱石先生の人生の未知を進んでいる、というのも語弊があるってことで超えていくというのではない。ある意味で、漱石先生がきちんとモデル化したように人生の課題はここである意味で極まっている。
 ただ、それでも、さすがに51歳という存在というか意識は、まじで人生の後半というか、実際には後半なんていう時間はないにせよ、後期人生に突入しつつある奇妙な手応えはある。
 それは、言い古された言い方だけど、新鮮でもあるな。