晴れ

 天気図を見て、まだ梅雨明けとはいえないかと思う。
 ブログに書評もどきを書いているときは、ふんふんという感じだったが、
 ⇒極東ブログ: [書評]人生の危機は宇宙からの贈り物(ローラ・デイ)
 考えようによっては人生の危機みたいのがぽこぽこを発生し、動揺し疲労した。「考えようによっては」というところが微妙で、すべての人生の危機がそうであるとは思えないが、「考えようによっては」というものもけっこう多いものだなとも思い、意外とデイの本が役立っていたんじゃないかと不思議な気がした。
 夢は見たと思うがよく覚えていない。昨晩は簡単なトレーニングのあと、フルーツワインを飲み、ちょっとものたりない感じでカンパリソーダを飲んだが、少し飲み過ぎだったかな。
 ブログというかこうした日記を書いていて、自分が何か変わったかというと変わった部分はあるし、それを想起できないわけでもない。プラスに変わったかというとマイナス面もある。自分にはある種、パッショネートな資質があるのだが、それは弱くなった。年相応というのもあるだろう。ブログとかネットの世界も自分が慣れていたものとは大きく変わった。自分にとってネットとはもっと明るく可能性のあるものだったが、ブログシーンの途中というか、自分がなんとなくその場にいるようになってから、おやここは違うのではないかという思いと、それはそれでなんか頑張ってしまう自分もいた。
 いわゆるネガコメ的なものは、虚勢をはるわけではないがそれほどどうでもいいと思う。誤解というのは意外とつらい。どうしてわかってもらえないのだろうという苛立ちの背景には、本質的にわかってもらえるわけはないじゃないか、人生いつだってそうじゃないか、自分のある種の伝達への情熱みたいのはそういう、つたわらなさの痛みが機動力じゃないのか、でも、それは実際の実人生では終わったことじゃないのか……そんなものがある。そこはよくわからない。
 日常生活ならあまり向き合うことのない、底知れない憎悪というか悪意にも会うようになった。これはそうした悪意を向けてくる人のメタ構造の意味の回路で、たぶんきちんと自分の役割があるがあるのだろうと思う。単純に自分が悪いのだなと思う。ただ、どう反省しどう改善したらいいのかは、意外とむずかしく、巡回する。たぶん、この悪意のメタ構造のなかで、どこかしら救済のメタ構造もあるのではないかという直感があり、自分が傷つくのは迂回されて肯定される部分もあるようにも思う。ただ、直接的にはそうは思えないし、そこはむずかしい。逆に日常あまり悪意に出会わない理由もなんとなくわかる。というか、そこに自分にはある種の決定的な愛情の欠落があるからだ。たぶん、ネットの悪意の遭遇はそうした不思議ななにかのメタ的なバランスがあるだろう。
 そうは言っても、というか、自分はもう少し変わっていかなくてはいけないかとも思う、というかこのところ思う。ブログとかやっていて、ああいかんなと思うのは、自分が、どことなく他者のために自己同定性を維持している部分がある。しかし、そこは少し崩していくべきだろう。というか、ある一群の人が私に沈黙でさよならを言うように私もそこで静かな別れを告げるべきだし、私はまた未知なる他者と会わなくてはいけないようにも思う。いや、その言い方ではない。未知なる他者と自分というのが未来ということだし、残された人生ということか。