こないだ足の指を怪我して

 たぶん、刺さった棘が抜け切れなかったのだと思う。痛いけどまあいいやと放置していたら、血豆みたいになって、それがでも内側になって、広がって、うーんこれはなんだろという状態になって、痛みもそれなりにあって、これって生体のなかで何やってんでしょうねと時折、水泳の合間に見ていた。その内、アザみたくなって表面に浮き上がり、最終的には古い皮膚のように剥けて消えた。3か月くらいかかったかな。
 たいした傷ではないけど、人類はけっこう足に傷を持つことは多いので、こういう機序はけっこうしっかりしているのではないかと思った。
 というか、人間なんてどうも設計的には(べつにID論とかの意味じゃないよ)、50年位の耐用年数か。ただ、どうも人類文明というのは、年寄りの意識を必然にしているっぽいというか、70歳くらいの賢人が一定数いないとダメなんじゃないか、めざせ年寄りみたいな感じもしないではないが。
 まあ、身体は無茶して50年。でも、脳はけっこうそうでもない。と、この話の要点だが、心理的な傷みたいなものも、それなりに自然的な回復の機序というのはあるのではないか。いやつまんないこと書いている自覚はあるので、そういうことじゃなくて。
 つまり、身体の回復機序というのは、一生のうちに使わないレパートリーがいっぱいあるように、脳もけっこうそういう余剰がけっこうあるし、今の文明では使わなくなった能力がけっこうありそうだ。
 オカルトめくわけではないし、けっこうちらほら公言近く書いているけど、私はけっこう木々との声とか聞こえない人でもない。まあ、比喩とか神話的という限定なのだけど。野山を歩いているのが好きだし、ふと蜘蛛に呼び止められてみることもある。で、どうもそういう能力というのの総体というのが、人間には存在しているようだ。
 広義にはポランニのいう暗黙知、つまり、indwellingということで、対象に住み込む能力なのだが、ポランニが一般化したのとは違った、もうちょっと微妙な、カテゴリアルな機序が存在しそうだ。そういうのは、現代文明というか、文明が魔術を払拭したとき(ウェーバーのいう呪術からの解放ってやつね)、同時に消えたものでもあるのだろう。
 そういう能力みたいのが生きていくのに必要かよくわからないが、個人的には私自身が生きていく上ではどうも必要というか、自然にそういう能力を開花させる傾向はある。
 ある種の芸術的な感性でもあるだろうが、芸術といったものともちょっと違う。というか、芸術というのは文明の制約をかなり受ける。
 そうした、一種奇妙な感性や能力のなかに浸されて生きている、生存しているということになんの意味があるのかわからないが、がというのは、どこかしらそういう心の進化論的な余剰能力を使って自分はサバイブしてきたかな、と。つまり、冒頭の足の棘の回復みたいな心をそれなりに大切に維持してきたかなという感じはする。
 このあたりの感性というのは、どうも、うまく他者に通じないし、逆に通じる人は自明に通じる。
 ちょっと余談になるが、私はネットでいわゆる匿名の発言をしない。ここだって匿名だとかまあ言われればそうだけど。で、けっこう、恥ずかしいなお前みたいなことを書いているのだし、嘲笑もされるのだが、その嘲笑の精神性のほうが匿名に隠れるとき、奇妙な他者に出会っているような感じがする。
 挑発する意図はないけど、嘘つきでしょ君、みたいな。弱さという点では僕とそれほど変わらないでしょ、僕を嘲笑する愚かさは君の内在にあるでしょ、というような。別にそれで対立しようとは思わないのだけど、そういう他者性みたいなものは、僕は人生のどっかで失った。あるいは最初からなかったのかもかもしれない。
 倫理とは違って、私はいわゆる匿名的に他者を攻撃することはしない。しないのは自分が弱いし、ダメだし、もう死ねよお前的人間であるというほかはないような存在だなとごく自然に思う。
 で、そういうのがたぶんニヒリズムに聞こえるのかもしれないけど、これもちょっとキチガイモードでいうと、散歩の途中で呼び止める蜘蛛さんとかはそういうある意識の水準で生きている。そうすることで生きられるよという、無形の知恵に充足されている感覚がある。
 こうした無形の知恵みたいな(足の指を自然治癒するような)、進化論的余剰というか、生死を繰り返して、いちおう僕にまで備えつけられた可能性みたいなものの重要さといのは、なぜかうまく文字の文化では継承されない。
 言葉にはならない感覚、他者との奇妙な距離の感覚、そういう奇妙としかいえない感覚の内側で、暗黙知を効果的に作動させる仕組みのようなものがあり、それが結果的にはまわりまわって人間種の文化に老人としての知恵として組み込まれていくような、ま、そんなイメージがある。