わかりやすいコピペネタ増田

 ⇒はてなユーザーってちょっとデカダンスなとこあるよね
 まあ、これコピペネタなわけだけど。
 で。

ロゴスとパトスって言うかさ。弁証法的に止揚されるにはペダンチックすぎるw
 ロゴスとパトスの弁証的な止揚はそれ自体がペダンティズムの否定にならざるを得ない。
 レヴィ・ストロース唯物史観アイデンティティ確立されてないし
 レヴィ=ストロース唯物史観はない(エンゲルスの原始性の了解と対比せよ)し、唯物史論世界観にアイデンティというのはない(マルクスの自由の概念はそれに近いにせよ)。というか、アイデンティティは現代哲学のコンテクストでは実存主義の言い換え的側面があり、後期サルトルが的唯物史論世界観に惹かれたのは構造側つまり非アイデンティの問題への配慮であった(あるいは自由の主体的な再定義)。
 もっと生の哲学の面からコンテクストを抽象化していかないと
 生の哲学は多様なんだけど、基本的にウルな現象性の抽出後のメタ的な理解なので、そのままのコンテクストの抽象化は独断論的になりがち。
 まあここらへんは実存的にはパラダイム入っちゃったかな
 実存論自体がパラダイム的というのはあるけど、実存論的なパラダイムというのはない。
 ヘーゲル歴史観に立つ俺からすればテロスがニヒリズムに否定され得るアポリアだとして
 ヘーゲル歴史観は絶対精神の顕現のプロセスでありそれは国家の精神に集約される。その意味でテロスは国家的な運動の終点でありニヒリズムよる否定ではない。というか、これはベタに近代の超克の問題のむしなおし。アポリアではない。が、ニヒリズムをニーチャ=ハイデガー的に捉えると、近代国家そのものがテクネーの産物でありその内在性においてテクネーのテロスが想定されるならアポリアになりうる。
 そのドラスティックなヒューマニズムの上にアジェンダを構築することがアルチュセール構造主義における、ミームだ。
 アルチュセールらの構造主義は基本的にアンチ・ヒューマニズムの相貌をしたヒューマニズムとも言えるので、それをアジェンダ化することは不可能ではないが、それらの世界の意味構造としてミームを了解した場合、ヒューマニズムが内包している主体性と関連で矛盾を起こす。ミーム的な世界観はアンチ・ヒューマニズムである。人類種への優勢性みたいなものはあるにせよ、歴史に対する主体意識的ではない。
 いずれにせよ、ケイオスティックな人間存在における経験をテクネーへと、普遍へと、止揚することが、デカルトパラダイムモダニズム的出発点だ。
 デカルトパラダイムモダニズムを生んだとするのは、基本的にハイデガー以降のポストモダニズムの基本了解のようにも思えるが、問題はデカルトの思想とその受容とは微妙に異なっている。その意味で、反哲学が目論むための基本的な仮定が本来存在しえたのか疑問だし、もともとポストモダン的な思念の歴史を持つ異文化においてそのパラダイム的な指向は安易な誤解を生む。カルチャラルスタディーズの視点がボンクラっぽく見えるのは哲学の基礎的な理解が足りないせいもある。
 人間存在をケイオスティックとして措定することそれ自体が後期ハイデガー的な目標を間違って先取りしかねない。また、人間存在における経験がテクネーへ止揚されることはなく、テクネーの運動はそれ自体がハイデガーのピュシスに含まれている。問題は、むしろ、そのピュシスがゲシュテルとして現れ出でる現在を否定的に捉えないとした場合、かつそこで実存主義的なヒューマニズムあるいはポストモダン的な迂回では対応しきれない。
 エピステーメー的に論考すればリングイスティックターン以降の日常的言語学派におけるアフォーダンスシラバスにおいてエキュートすることがアカディメイアのタスクだと思われ
 リングイスティックターン以降の日常的言語学派という動向それ自体を一つの知的考古学の対処としてみることもできるという点で、エピステーメー的に論考は可能かもしれないが、アフォーダンス的な生世界的な哲学とは接続しない(むしろ大森荘蔵的なべな日常性に還元は可能)。こうした知的な作業、あるいはその分離の知的作業をシラバス的なエキュートにするというのは浅田彰が20年以上も前に構造と力で行ったポストモダニズムのスキーム化に近いようだが、それがアカディメイアのタスクであるというより、基本的に脱アカディメイアに近く、むしろ文献学的な基盤をもたない日本のアカディメイアにおいてはむしろ正統的なリベラルアーツ的な基礎がまず求められる。
 さもなければ想像の共同体はサイバーカスケードの上にもろくも崩れ去ってしまう。
 想像の共同体はおそらく廣松渉の幻想の共同体あるいは吉本隆明共同幻想論あるいは岸田秀のいう共同幻想といった諸概念を曖昧にしたものだろうが、いずれにせよ、市民=個体の主体意識に対応する、国家的な共同性の了解性といったものがサイバーカスケードの上で崩壊するかどうかは、つまり国家的な共同性の了解にどれだけ、現在のゲシュテルともいるテクネーが関与しているかによるだろう。
 おそらく実際には、グーグリズムなどによって現れ出でるゲシュテルの新しい相貌は、一方においてIT戦士的な新しいタイプを生み出しつつ、他方においてミクシや2ちゃんる的な大衆化の地獄の分別を、あたかもスエーデンボルイにおけるキリストの技のように展開している。
 ここまですれば、はてな問題の意味がわかるだろう。つまり、IT戦士的な新しいタイプマンセーに対する文系的・非モテ的視点の構造的な意義申し立てである。