なんのために

 なにを求めて、生きるのかぁ♪じゃないが、「なんのために生きるのか」論は、テンプレ過ぎて考えにも登らないのだが、登らせてみると、それなりに思うことはある。というか、その思うことは、基本的なフレームワークのセットに収束しているので、むしろ、そのフレームワーク構造が問題なのだが、ようするに、肉体の快感の個性化と一般化の均衡みたいなものだろう。普通、意識が個性化のように思えるが、実際の性の開花期になると肉体の個性化が先行するし、それに従属するしか精神側には残されていないというのは、こりゃ生存の条件化している。
 で、そのあたりを疎外的に分離というか理想化すると、「なんのために生きるのか」論はちょっと違った相貌がある。たぶん、それは愛ではなく友愛なのではないかというあたりで、非常に難しい問題がある。
 話が端折りすぎで何言ってるか気違いモードになってきたけど、ようするに地獄に自ら堕ちていく人へ向ける「愛のような感覚」は愛なのか別の何かなのかよくわからない。これが「敵」なら愛という可能性は、つまり「もっと大きな愛」を想定するればありうるかもしれない。が、要は、その奇妙な哀れみのような感覚だ。
 というあたりで、ニーチェというかツァラトゥストラの最大の問題は高人への憐憫だった。あれは友愛ということだったのかよくわからない。
 孤独は孤独だが、普通の孤独というのは、自己の内在価値によって孤独が評価されてしまうトラップに陥る。つまり、孤独の意味に充足してしまう。
 あるいは孤独は友愛のようなものに引かれる。
 先の「もっと大きな愛」のような、存在の磁場というか場のようなものはあるのだろうが、それが個性化=孤独と友愛とどう関わるかはとても難しい。