自省力の問題というか

 自分語りで始めるのもなんだが、私は子どもの頃ひどい孤独で云々、そして世界と人々は私を否定していた、ので、そういう状況からこの世界に向き合うことになった、ま、端折って言えばそう。
 なので、自分が正しい、正気だという前提から出発しない。自分の思念・存在はまず留保され仮説としている。そして、半世紀も生きてみてしみじみ思うのだけど、仮説を人生で検証して生きるという人はそんなには多くはないのかなと思う。
 私は、私を否定した人の言動も留保する。それも仮説にする。そして生きながら自分の仮説と照合して検証していく。検証というか経験というか。できるだけバイアスが入らないようにしている、というのはバイアスとは自負のようなものだからだ。
 で、そうはいっても、生きて継続的に検証していくと、意外と自分の仮説のほうが正しい。
 そうなる理由は、古典というか死んだ人の叡智に頼るしかなく、そういう人達はその人生で検証しているのだから、そういうものか。
 しかし、世の中や人々はあまり変わっていない。
 私は自分が正気であるとも思っていないし、正気でありつづけるとも思っていない。
 神は、残念ながら、存在しているか? とこの社会の人に問われるなら、私は社会のルールを知っているからそこで成立する最小限の意味として、「存在しないよ」と答える。それ以上のことは、知性のある人でないと通じないし、狂気の意味を了解している人でないと通じない。
 パウロはイエス使徒や信者を迫害していた。が、そのパウロ(サウロ)はイエスに出会った。まったく不可解。キリスト教の神話なんで、そんなことがあったのかと言えば、この点については聖書学的には伝説ということになっている。
 だが、人間・人生経験という場ではそういうことはない。
 神は存在しない。水は語らない。
 でも、ある日、私に、私にというのはあなたにということでもある、違いなんかない、神が語りかけ、水が語りかける。
 そんなわけはない、そういう可能性を想定することが疑似科学だと言うなら、それば、ただの愚か者だろう。
 経験というのはそういうものではない。
 その経験と社会との場でどう語るかというのは問題となりうる。
 私は、人は死んだら終わりだと考えている。
 そして、そう考えることで、死の恐怖を引き受けている。
 だが、ある人が死後の生命を考えているとしている。彼・彼女にはそれゆえに死の恐怖はないのかもしれない。
 それらはバランスしている神学的な状況にすぎないのではないかと思う。死は無である、だが、私は恐怖しない、というのは、ただのバカなのではないか。
 ただ、私たちの社会は、そのルールは死後の生命を想定しない。そういうことだ。