これは偏見なんだけど

 将棋とか上手な人が頭がいいとは思えない。
 語学ができる人が頭がいいとは思えない。
 これは偏見というか、劣等感の表れかもしれないけど、けっこう経験的にもそう。もちろん、頭が良くて将棋が上手な人もいるし、頭が良くて語学ができる人もいる。でも、なんか逆は関係なさそうな感じ。
 言語によって思考は限定されているかというまいどまいどのサピア・ホワフ仮説だけど、これはどうももともとも議論としてフォーマライズできないっぽい、というか、言語学は基本的にsocial contextでのsemanticsを扱わないので、というか、semanticsとはlogicsに近いので、言語によって限定されることはないのが自明の仮説になっていて、つまり、議論するだけ無駄な領域。
 ただ、実感としては、言語はsocial contextをもっていて、対話ストラテジーに反映しているので思考に影響はする、というか、常識的に。
 という意味で、類縁の言語でないバイリンガルでドミナンスのない人というのはないんじゃないかなと思う。少なくとも、けっこうなバイリンガルを見てきたけど、いないっぽい。
 米語も日本語も、かなり独自のインテリゲンチャの世界があって、たとえば、小林秀雄の文章とか英訳したらただのバカみたいだけど、なかなかそう言い難い。というか、小林という人は悪文な人なんで、それだけでバカと言ってもいいみたいだけど、彼のベルクソン読みとか見ているとけっこう緻密に読んでもいるので、いわゆる売文家ではないところでは、ちょっといっぱしの学者みたいなところもあった。そういう部分はあまり著作集には出てこない。
 吉本隆明もそう。あれもかなりの悪文。というか、主要著作が何言っているか普通の欧米インテリだとわけわかんないはず。ただ、吉本というのはある意味で単純な人で、コアの概念が図式的に演算的に書かれているだけなので、そんな難しいことは言わない。
 ついでに山本七平の文章もだが、うーん、やはり悪文なんじゃないかと思う。
 というか、どうも日本のある在野の文章は悪文になる必然みたいのがあって、つまりはそういう文化かもしれない。
 というか、この問題はフランス語と英語にもあって、フーコーとか米人も翻訳して読むけど、あの手のエッセイみたいな文章を書くとバカだと思われることがわかっていて書かない。そのあたり、なんか日本のおフランスなインテリはよくわかってないんじゃないかというか、柄谷あたりは英語教師なんでわかっていて矛盾の自覚もあるようだ。柄谷も構成からいえば吉本みたいな人で意外と単純、というか、これは悪口になってしまうのかもしれないけど、きちんとした文系の学問を受けていないか後年になって受けたか、べたなテキスト読みが粗い。
 竹田青嗣なんかはむしろべたなテキスト読みが強い、のだけど、それでも後期ハイデガーとかは歯が立たない印象はある。
 とか、なんとか。
 日本だと頭のいい人は悪文書くし、べたなテキスト読みが粗くなりがち。まあ、日本と限らないのかもしれない。
 というかいわゆる美文とか読みやすい文章というのは、ある程度の深みのある思考に絶えられるものではないように思う。そのあたりの機微みたいのは、ある水準の読書経験のない人だと基本的に通じないのではないかな。