ちょっと原則的ではないけど
自分のエントリのぶくまに反論とかはしない原則なんだけど、synonymousさんとはコメント欄で交流が多いのでその延長的に少し言及してもいいかと思うので。
⇒はてなブックマーク - 栄養をきちんと取る For Dummies - finalventの日記
2007年11月28日 synonymous id:I11 と id:ochame-cool に賛意。
まあ、どう賛意されてもかまわないのだけど、賛意されているのは私のエントリへの批判っぽく見えるので、ごく普通にsynonymousさんも批判の意図があるようにも思う。で、それ自体はくどいけど、ご自由になんだけど。
そのラジ愛さんと茶冷さんの
2007年11月27日 I11 食生活のバランスか。贅沢な悩みだ。所詮は中産階級以上の人にとってだけ意味のある話題。プレカリアートには食のバランスを考えるなどという選択の自由は存在しない。飢餓感を抑えるだけでせいいっぱい。
ラジ愛さんお得意のキュートなユーモアなんで(あるいは緑の革命以前に学習を終えたの世代の方かも)、世界の食の実態を知らないわけではないと思うので野暮なことではあるけど。
参考⇒極東ブログ: 貧困の問題は贈与では解決しないだろう
飢餓感というのと実際の食との関係がねじれてしまっている。あと、肉食の問題がある。先進国が肉食を低減すれば解決できる問題もある。
2007年11月27日 ochame-cool 科学 まさに似非科学が流行る理由だな。全然実用的じゃない。点数計算なんて、看護婦の母でもやってなかった。ってことは習慣だよね。家柄が食生活に出て、健康格差が広がるというわけか。せつねぇなあ。
点数計算なんて無理だよというのは元のエントリの趣旨なので、その先の「家柄が食生活に出て、健康格差が広がる」がポイント。
そこをsynonymousさんはご理解していただけての賛意なのだろうか。
ポーランドの経済改革だったかドラスティックな改革をするとき、国家側が注視したのは卵の価格だった。卵が安価に提供できれば国民の健康のボトムが維持できる。
香川綾も戦後の荒野でそう思った。そして子どもたちの生育のためになんとしてもミルクを飲ませたかった。
戦後の平和主義というのは、現代だとイデオロギー的に平和が浮いているみたいだけど、歴史の実感としては、食えない人に食わせたい、子どもたちが健康であってほしい、そういう社会を実現したいということだったんだよ。
それが戦後リベラリズムの根幹にあると言っていい。
finalventは食い物にうるさいから、執拗に議論していると思われている面もあるし、そう見てもらってもいい。だけど、私の食の話は、そういう意味でのリベラリズムなんですよ。「家柄が食生活に出て、健康格差が広がる」の避けたい。
卵はアルゲンになりやすいし、牛乳は乳糖消化の問題もある。でも、香川綾はそれをあえて第一群に置いた。戦後の荒野に立った香川綾のその思いが日本人を健康にした。
20世紀というのは、結核の時代だった。国家が医療で立ち向かったものは、性病と結核だった。だから医療は国家との関係でそこに組織化された。現代の日本国家の健康施策というのも性病については失われたが、実はいまだに結核撲滅組織としての根を持っている。
でも死病としての結核を日本から駆逐したのは、医学ではなく、国家でも、栄養なんです。リベラリズムの実践的貫徹による勝利なんですよ。
リベラリズムというのは、つまり、合理的な科学主義というのは、特に栄養学を介して、こうして戦後を具体的に改革してきた。そこをちゃんと理解できているだろうか、と僅かに疑問に思ったのですよ。