つまり速度の問題か

 コミュニケーション速度の問題だろうか、マシンの制約というより。
 ちょっと考えると、普通の会話って言うのは、速度がマシンより上がるかのように見えるけど、リアル会話っていうのは、基本的に、A氏くっちゃべる、B氏聞く、でないと成立しないわけで、A氏くっちゃべるがB氏もくっちゃべるというのは、ありというか大蟻食いだけど(オヤジかまし)、聞くがない部分でスレショルドで流れているわけで、余計なビタミンB取っても、シッコに出るだけ的になる。
 で、コミュ速度っていうのは、いわゆるリアル速度じゃなくて、クロスレファレンス的なものかも。
 つうところで、書籍というか、エクリチュールっていうのもデリダ的なパズルはさておき、実際には、時間と記憶を交差したクロスリファレンスにはなっている。
 今のところ、twitter的なものは、流れるというか、個々人のメモリーというかメモリーの知的機能によってクロスリファされているけど、その部分で、もっとマシンのインテリジェンスに転換できる部分はあるはず。というか、複数の人々が実際に対話しているとき、その情報のクロスリファーに現れる知性、っていうか知性みたいなものってなんだろ?
 と。
 いうようなことはtwitterとかにはかけないし、ブログに書くようなこってもない。
 ついでに。
 先日のシッコかけんじゃなねーホワホワ罵倒もそうだし、この数日の新聞て広告だよとかもそうだけど、本当は、きちんと突っ込まなくてはいけない。しかし、現在社会の、っていうか、ネットのぬるコミュはそれをブロックというか血祭りというかそういうトラップの餌食になるようなっているというか、プロな人々お疲れさんです的状況で、やってらんない。
 という意味で、通じないのは、それが正しい状況であって、通じさせたくないという一種の政治力のリザルトなわけで、そのあたりは、もっとまともなブログとか書籍的な装備が必要になる。
 が、けっこうそういうのどうでもいいのかもしれない。
 っていうか、正しい知識をきちんと展開したら終わったしまうような、糞な話題ってほっておいてもいいし、ほっておけない部分はどうしようもない。