山本鼎とか

 ⇒山本鼎 - Wikipedia

山本 鼎(やまもと かなえ、1882年(明治15年)10月24日 - 1946年(昭和21年)10月8日) は、愛知県岡崎市出身で、長野県上田市に移住し、美術の大衆化、民衆芸術運動のなかに身を投じた版画家、洋画家、教育者である。

山本鼎は1882年(明治15年)10月24日、愛知県岡崎市に父一郎、母タケの長男として生まれた。間もなく、漢方医の父が医師資格取得に必要な西洋医学を学ぶため上京、一家は東京、浅草区山谷町に移住した。小学校を卒業した鼎は、浜松町の木版工房で桜井虎吉の住込み徒弟となり、版画職人として自立する道を歩み始める。鼎16歳のとき、父が長野県小県郡神川村大屋(現上田市)に医院を開業、一家は移住、鼎にとって上田は第二の故郷となった。

 ほぉ。上田に移ったのは16歳だったのか。

モスクワ滞在中、北原白秋と懇意な青年と会い、白秋の妹、家子との縁談を紹介され、帰国した翌年(大正6年)二人は結婚する。

 へぇ。そうだったのか。
 ウィキペディアには書いてないが。
 ⇒秘色の湖の命名者 詩人 山本太郎

詩人
山本太郎の略歴
大正14.11.8〜昭和63.11.5
詩人。美術家山本鼎(かなえ)の長男。母家子は北原白秋の妹。旧制佐賀高校から東大独文科卒。草野心平らが創刊した「歴程」の同人となり、旺盛多産の詩業によって戦後詩壇の旗手といわれた。昭和35年刊の詩集「ゴリラ」で高村光太郎賞。44年刊の「覇王紀」で読売文学賞。50年刊の「ユリシイズ」で歴程賞。52年に「山本太郎詩全集」が出た。

 なるほどね。
 山本鼎山本太郎も60歳少しで死んだ。
 ⇒山本太郎の思いで|がんになったら

詩人山本太郎
わたしの時代、
つまり、
全共闘の時代の
文学をめざしていた若者たちあいだでの
ヒーローだった。
山本は大学で教師をやりながら
歴程でも若者を指導していた。

 私は直接お会いしたことはないが詩をずいぶん見てもらった。お名前くらいは覚えてもらえたのではないかな。
 でも、私は20歳になって詩を捨てた。
 ⇒Ishigame Yasuo./Message Board.

1988年12月13日に「さよならパーティ」をホテル・エドモントで開いています。ところがそのパーティの案内状を書いた詩人の山本太郎さんが11月5日に長野県の講演先で脳溢血のため急死してしまったのです。

 昭和63年。私の父はだいたい山本と同じ時代を生きて同じころに死んだ。
 翌年2月手塚治虫が死んだ。彼もだいたい同じ。でも、彼は戦争を免れた。