吉本の3相幻想論ではないが男は

 個人としての男、対性との関係の男、公と関係の男、がありそうだ、とか洒落でかきそうだが、公と関係の男というのは矛盾しているような感じがしている。公との関係においては、人に還元されるのでないか。しかし、そこになにか微妙な領域があり、たとえば徴兵といった問題がある。日本の場合、フェミニズムは広義に左翼的平和主義にフィルターされているため、女性が軍に存在するべき論みたいものが出てこない。
 公と個人の関係は対応しているのだから、個人としての男、というのも矛盾がありそうには思えるが、ここには暗黙の内の是認があるだろう。むしろ、性というのは、対性との関係から個人がそげおちた部分というのがどうしても存在する。
 対性における男というのは、ようするにそれは家族幻想に吸着される(ライフサイクル論か?)ので、つまりは、「父としての男」ということになる。女の場合は「母としての女」だ。だが、対性の関係性はそうした世代を含みこむようでいながら、そうでもない。
 やはり、根にあるのは、ライフサイクルだろうか。
 粗雑な議論だが、ライフサイクルが世代の仕組みであるとすると、だいたい子を持つのは35歳くらいだろうか。もちろん、これには大きな幅があるし、なにより個人幻想側での主体性が公において現れる。
 が、そうした点を捨象すれば、女性の場合、35歳を過ぎると子を産むことが難しくなるし、あまり語られないが、対性としての男性との性関係も、10年若い25歳のそれとは異なったものにならざるをえない。そのあたりも、たぶん、フェミニズムのある課題なのだが、やはりイデオロギー主導性の個人幻想側に吸着されるのか議論を見たことはない。ないわけもないだろうが、ある種の「保守」とかで切り捨てられるか、粗雑なオニババ論になるのが関の山だろう。
 男の場合、子という世代の仕組みへの組み込みはかなり広いレンジのあそびがある。粗雑に言えば、50歳でも子は可能だし、55歳くらいまでも可能かもしれない。で、そのとき、55歳の男は、実際には、35歳レンジの女性と性関係を結ぶことになる。あるいはさらに下ということだが。どうもそのあたりの人類のしかけというのがありそうに思える。あまり議論を見たことはないが。
 たとえば、25歳の女性がいるとする。伝統社会では25歳は成熟した女性なので、その成熟性というのはその社会との権力関係を理解しているという意味だ(屈服していることが大半だが)。とすると、その場合は、50歳の男とは権力や富ということに直結するし、そのあたりの仕組みは滑らかに動く。男の側がより好色的であれば、25歳以下の女性に関心を持つだろう。
 その場合、たとえば18歳くらいの女性が50歳の男をどう見るかといえば、これは生物学的には嫌悪ではないだろうか。せいぜい男性として見えるのは35歳が限界だろう。と、ここで必然的に18歳の女性を巡り同年の男と10歳上の男のある権力の仕組みがアプリオリ的にできてしまう。
 現代日本の場合、18歳の女性がなんであるかはよくわからないが、それでも25歳ではある成熟を達成するだろうから、20歳くらいで女性のかなりのブレが起きるだろうし、経済的にあるいは男の選択の可能性としてイージーに開かれた場、たとえば芸能界とか見ると、そうした構図がけっこうベタに可視になっている。
 ここで奇妙なのは、20歳くらいの女性にとって同年の男の魅力というのが、あまりはっきりしないことではないか。それと、たぶん、私の世代まではもっていた同級生志向が正しい恋愛的なある圧力もすでにないだろう。高校生の現在の世界では女から同年の男はたぶんなんら性的な興味をそそられない存在だろうし、男の側もそれに見合ったずれのなかにいるだろう。
 話を端折ると、現状の構図としては、男女ともに25歳から35歳の間で、奇妙な不安定構造があり、そこに社会権力や富の構図で50歳の男がちょっかいを出し、20歳の男がはじかれるということではないか。では、50歳の女というか、35歳の以上の女はというところで、大半はライフサイクル的な母像とある程度経済基盤をもった個人像によって性的なある種のマーケットからは離れることができるのだろう。そのあたりが、ライフサイクル的な安定性をもたらすはずだが、その比率がたぶんかなり落ちているに違いない。
 このあたりの問題は社会を薄目で見ると見えてくるものだが、あまり議論されていないように思える。
 
 と書きながら、ああそうかと思ったことがあった。このゲームは社会をライフサイクルが吸収してしまえば、50歳男が常勝になりかねず、その不利益というかチャレンジを男に返却する遺伝子的しくみがありそうだな。ああ、そうか。