赤紙

 という言葉をとんと見かけなくなったし聞かなくなった。現物のリアリティを知る人が少なくなったからだろう。
 すでに昭和40年代ぐらいから戦争が神話化していたように思う。赤紙=徴兵、というシンボルに直結していた。しかし、実際に諸処赤紙に触れた人のリアリティは奇妙な重層性があった。もちろん、戦争反対・賛成といった二極の直線的なものではないのだが、昨今の議論とかそいう一次元的な話が多すぎだな。私がネットウヨ?とかさ。
 今の全共闘世代がハイティーンだったころ、その上の世代のべた左翼に誘導されて、「どうしてお父さんたちの世代は戦争に反対しなかったのですかぁ!」みたいな声を上げていた。戦中派のお父さんたちは答えられなかった。その答えられなさかげんを子供の私は見ていて、ああ若者ってバーカだなと思った。あんなバーカな若者になるのはいやだなと思った。つまり、全共闘世代みたいになるのだけはごめんだな、と。
 小林秀雄が戦争と文学者というテーマについて、正確な表現ではないが、彼は文学というのは徹頭徹尾平和を志向すると喝破した。もちろん、戦争を鼓舞する文学もあるし、オリンピックなんてべたに言えばナチズムじゃん(歴史的にもかなり)。しかし、彼が喝破したのは、やや宗教的な考えに隣接するだろうが、戦争を鼓舞するような文学というのは文学のリアリティ、つまり人間のリアリティがそれを許さないものなのだ、ということ。戦争という殺戮というのは文学者にはこのうえなく不条理でしかなく、文学とはその不条理に対する人間の挑戦なのである。だから、文学者というのは文学のリアリティの底から呻き上がる平和を感受すればいいのであって、反戦などの平和だのの理念はただの理念であり、はりぼてみたいな文学偽物ができあがある。もっとも、そうした文学の底から戦争や殺戮のリアリティが持ち上がったらどうだというのだろうか? それはそれに文学的に対決するだけのことだ。
 そして小林は、では戦争になったらどうするのかと問われて、一兵卒に処す、と答えた。文学者として戦争なんかしない。戦争は兵卒がするものだ。あたりまえだろバカと小林は言いたいふうだった。私はそれを読んだハイティーンのころ、小林が正しいと思った。人は赤紙の前で文学的な思いを持つことはできるし、それを文学に結実させることはできる、しかし、その赤紙の前では、一人の国民として一兵卒に還元され、いかなる特権もない。文学だの哲学だのという思いが自分の特権性を意味するわけがない。理念を語り得るような暢気な状況ではないというのが、あの状況であり、だから悲劇だったのだ。小林は戦争は悲劇だとだけ言ったし、彼は悲劇の意味を、偉そうに文学だの哲学だと語るやつらは、知らないというふうにも言った。
 もちろん、言うまでもなく、市民は戦争を回避できる(ダルフール危機だって回避は不可能ではなかった、もっともなぜか反戦主義者とか平和主義者たちはダルフール危機に言及しなかった。「ダルフール」という言葉すら避けているかのようだ)。単純な話でいえば、太平洋戦争だって議会が軍の予算を切ればそこで終わった。現在の米国だって同じだ。米民主党が本気ならそうすればいい、やるのかと私は見ていたし、その結果も見た。
 日本国民は議会を使って戦争を止めることができなかった。
 それはどういう意味なのだろう? べたに考えれば、そういう戦争をやめさせる議会ではない手順をとればいいという結論も出る。それが正しいですか? それが正しいというときの正しさはどのような公理から生み出されているのか?
 国民が一斉に狂気に陥るということがある。そのなかで人は、白バラのように、可能な良心に従っていけばいいし、赤紙を前に、ものみの塔の人のように(参照)、命を賭けて良心的兵役拒否をしてもいい。
 ただ、大衆はそうしないだろうし、そうできない。つまり、問題は、その大衆を疎外して、人を明石順三なりのように突出させること、あるいは、議会を越えた正義に招集することが正しいのか?
 大衆にはその正義もまた赤紙と同じにしか見えない(同じく大衆の命を奪うだけの権力の使役)ということを、エロイ人はわからんとです。