晴れ、薄曇り、残暑厳しい

 8月も26日、最後の日曜日か。今年は例年以上に暑かったように思うし、暑さには辟易するが幸い今年は水泳のせいか、体力が少し向上しそれでもっている部分がありそうだ。いろいろ鬱に落ち込むこともあるが、体力で補っている部分もある。そのわりに、今年は酒を飲む夏だったかな。ビールを飲んだ。もっとも、酒飲みにすれば飲んだ量にはならないだろうし、アルコールが飲みたいというより、うまいものが飲みたいという感じだ。
 ネットがつまらなくなりつつある。そう言いながらこうして書いている部分もある。つまらないというのは、しかし、少し違って、なんというのか、目に付くところが非常に浅薄な印象を受ける。仔細に見ていくと、私に対する批判や揶揄などもあるようだが、こう言ってはなんだけど、私が書いてきた物についてではなく、ここでの放言が目障りという程度のものにすぎないようだ。つまり、極東ブログが読まれていないか、逆に読んでいる人はそう浅薄は反応はしていない。という、その読んでいる人の部分の重みも感じる。
 ブログは基本的に気ままに自由に書いていきたいし、商品になるようなレベルのものを毎回書くわけでもないが、積み上げていけば見えるものがあるだろうし、それが見えない人からコンテクストを外した私に対する嫌悪を表明されても、というかそういうのに応答するような若さというか情熱というか、つまりいわゆるリアルに絡まっていく思いは少ない。
 昨日の岡田斗司夫さんの(参照)。

仕事仲間がいれば、友だちなんて要りません。人間関係で必要なのは、仕事仲間と恋人と家族だけですから。それだけで、豊かな人生を送ることができますよ。

 パソコン通信を始めたころはそうではなかった。二十代が後半にさしかかるころ。そして、当時はネットの関係はそのままリアルの関係になったが、今思うとそのピークは5年で、あと5年は衰退した。沖縄に出奔してみると、人間関係というものがなんであるかも別の側面でもわかった。
 「友だち」というのは、人にもよるのかもしれないが、私と彼/彼女の関係でなければかならずある種の党派制なり、選択というか、また性との関係性の影を帯びる。そしてそうした力のバランスのなかで、基本的には一種の仕事の関係のようになる。
 ブログを通して見えるものは、むしろ友情そのものだった。それはむしろそれまでのパソコン通信とは違ったものだったかもしれない。ブログから見える友情といっても、多層で、いわゆるご近所的な関係性から、たぶん彼/彼女は私が密かに友情というか支持の思いを持っていることを知らないだろうというものもある。現状では、なんというか、ブログから見える友情というのは、それは不可視のままでもいいのだろうと思う。というのは、可視の揶揄・罵倒といったものの浅薄さと対になった深みのようなものがある。
 基本的に現状のブログは若い文化なのだろうし、おそらく今後増えてくる私より上の世代のネットコミュニケーションは、私のそれとは異なり、彼らの若い時代の再現のようにもなるのだろう。私は、たぶん、若い世代にも年上の世代にもうまく馴染めないだろうし、世代がそれほど問題ではないとまでは言わないが、この世界に薄く細く現れる友愛のようなものの不思議さを思う。別の言い方をすれば、私はイデオロギー(つまり善悪の公理によって人を裁くこと)にも信仰(善悪の超越性)によっても、他者の関係を築くことができないし、それはただ私には関係のない欺瞞に思える。