ついでに馬鹿丸出し系

 かもだが。
 私は、経済学の基礎というか自然性でよく出てくるモデル、つまり、交換、というのは実はまるで信じていない。というか、あれはある種の理論もモデルであってそれはそれでいいかもしれないくらいにしか考えていない。
 あ、つまり、あれですよ。物Aと物Bを交換するのに貨幣がというあの延々たる話、あれ、たぶん、嘘でしょ。
 たぶん、最初に貨幣がある。貨幣があって、それが国家を希求する。実際の国家は軍隊というか実質の権力からできそうに見えるが、たぶん、物理的な権力から国家はできないだろうし、貨幣と交易側から国家が要請されるのだろうと思う。
 で、貨幣は、ようするに何からでもできてしまう。
 で、貨幣とは、基本的に他者の屈辱を買うという倒錯的なエロス性からできているのだろうと思う。
 マルクスというか古典の発想では、リンゴがリンゴの木に実っている。それには価値はない。リンゴを取りに行く労働に価値がある。ということだが、この労働というのは、一見主体のように見えるけど、ここですでに本質は使役=屈辱なんだろう。「1000円やるからあのリンゴ取って来いや」とか。
 いや、もちろん古典的に、必需品の交換というのも成り立つ部分はあるだろうが、たぶん、そこから貨幣は発生してなくて、原点が使役=屈辱だろうし、どうも、それは男女の性欲の構造から生まれているのだろうと思う。
 このあたり、以前の栗本さんが延々と語ったようで、今思い返すと、それほど明確なモデルは描いていなかったように思う。というか、国家と貨幣の関係があまりクリアではなかったように思われる。むしろ、呪術=祓い=払う=対価=貨幣みたいなスキームだったように思える。それは違うのではないか。呪術はむしろ対価の力が幻想域に適用されうる延長で出てきたのではないか。
 使役=屈辱=対価という価値性というのは、しかし、栗本さんも蝶々の経済学とかで多少語っていた面はあったかもしれない。
 蟻とか蜂とかも、どうも貨幣を持っているっぽい気がする。そのあたりの最近の研究はどうなのかよくわからない。ないのだろうか? ないというは蟻とか蜂とかには貨幣的なシンボルはないのだろうか。
 なぜ他者の屈辱を買いたいとして人は蓄積するのだろうか?
 もちろん、これはブス男一人設定すればすっきりわかるモデルもできそうだが、つまり、性を買いたいというふうに社会のなかでその男がブス男として配分されているからだ。というか社会の側の幻想性が美醜を性に配分することでその非均衡性を本質としているのは、つまり貨幣の本質とたぶん同じということだろう。