人生とレール

 ネタ元⇒知的好奇心解放 - マ儿コの日記 - レールから外れたら人生オシマイ幻想の被害者
 といいつつあまり直接的なことではないが。
 昨晩、食事を作るのも難儀で雑なものを食いに出かけ、そのおり、わざと遠回りして荒れた道を歩いていると、カラスウリの花が咲いていた。ぞっとするほど美しく、妖しかった。これはなんだろうと見とれた。写真にするとあの暑い夜を吸い込んだ姿は消えてしまう。
 こういう存在が世界にはいろいろある。虫たちや魚たちの不思議な生活もぞっとするほどの美を持っていたりする。そしてその延長に人間の身体があることもある。こうした奇妙な美のようなものはなんだろうか。ただ、それは人生とも社会のレールとも違う。孤独というのも無意味なほど孤独で見えづらいものだ。
 私は社会のレールというのから脱輪した失敗者だし、どうもその脱輪感が抜けないだろうというのも諦めている。いや、レールはレールで大切なものじゃないかと思っているというべきだろうか。
 人は他人のようには生きられない。この馬鹿みたいな当たり前ことに得心するのはけっこう人によってはつらいものがある。
 人は一人死んでいく、というのが、これ以上ないような個性化の真理のようでもあるが、ただ、少し違うかもしれない。人は人の思いのなかで死んでいくということは、思いのなかにある死にえない何かを残す。その思いも死に絶えれば、それは忘れられるか書かれたものか伝承かなにか異質なものになる。
 そうした異質な何かとなってこの世界に残るべきなのかよくわからないが、死は微妙に無ではないなにかがないわけでもない。