些細なことのような大きなことのような状況認識の違い
しかし今は油断をすれば生きてゆくのもままならないほどの貧困に足をすくわれかねない時代である。
そうした時代にあって、安倍晋三は不可欠の感度を欠いている。
大臣の失言が彼を凋落させたのではない。彼を凋落させたのは彼自身だ。
私はgreenさんのお歳を知らないのだが(性別も知らない)、雰囲気としては昨日のエントリですこし触れたいわゆる負け犬世代の男性ではないかと思っている。世代のことを口にしたのは、貧困の味わいというか貧困の風景というものは、だいたい私の世代(今年50歳)くらいからで、以降、質が変わる。もちろん、それ以降にも貧困はあるのだが、そのあたりのリアルにあの時代を生きて見た貧困の感触はなんとも言い難いものがある。で、議論としてそういう世代論的な不定形な体験談から発してはいけないのだが、上の「油断をすれば生きてゆくのもままならないほどの貧困」への視線が、私とは違うのだろうなという感じがする。些細なことのような大きなことのような状況認識の違い。それはなんだろうかと少し思った。
ちょっと間違った切り口かもしれないが、人が複数生きている定常社会においてある意味で絶対的な貧困というのはない。連帯があれば人は死なない。貨幣経済をするりと抜けることが普通の人にできる。というか、貧困とか飢餓というのは一般に言われているより貨幣現象だと私は見ている。
もちろん貧しければひもじいし飢えて死ぬ人もでる。と書いてみて、ああ、「ひもじい」という言葉だ。この言葉の語感だと思う。
話を端折る。私の話はたいした話でもないし。で、今の社会はある意味で連帯がなくなりつつある。人の孤独を見つめていく社会だ。人は孤独が原因で死にうるものだという認識はそれは言語化されていなくても、貧困が定常化した社会にあってはもっと危険なものだとして自然に認識される。
団塊の世代がはてな的な若い世代からバッシングされる。団塊世代ではない私なども老人死ねみたいに言われる。だが、彼らはあの貧困の世界を見ているし、そこの連帯の感覚を持っている。そこを戦後民主義に借りて左翼が蚕食したとも言えるのだが、それでもあの感覚の絶対性というものはある。