曇天、降雨確率50%

 とのこと。降らなそうな感じもする。ばたばとしてネットが遠くなるようにも思うし、そう思うときネットもまた私を遠く扱うのかもしれない。あるいは、ネットと思っているもの思われているものはある種の幻想だろうし、もちろん幻想なんて最初からわかっているさという意味ではなく、ある種のリアリティとしての幻想ということだ。
 エリクソン周りの本などを読み、いろいろ思うが、うまく心にまとまってこない。心のまとまり方というか思いの動かし方に私には何か癖のようなものがあり、その癖自体がそれほど自分の現状というか生き方の打開のツールとしては機能してない。あるいは原因的思考というのだろうか。
 そういえば昨日道元の、「万法ともにわれにあらざる時節」というのを木立を見ながら、擬態する蛾などを見ながら考え込んだ。この句の解釈だが、通常は、諸法無我として、万法の側にそれぞれの我(アートマン)を否定すると読まれる。が、私はこれは独我論的に、我=意識主体との関係性として読んでいよいかもしれないと思っていた。が、ふと、木立や木々や虫たちが、愕然と私の意識と関係なく存在するという思いにとらわれた。客観世界があるというのではなく、我意識の根底に、諸法の仏法なる時節、の大きな構造があり、その全体的な、宇宙的な意識構造とかいうとトンデモ臭いが、そういう意識を成立させる根底性(つまりは生命というのは意味関係の依存で成り立っている)があり、諸法の仏法なる時節において、諸法に我が想定されているとしてよいのではないか。だが、その仏法=意味構造の根底性というのは、時間=この今、に限定されており、我とはそれぞれが今というこの時点だけの存在、そして、それゆえに、「万法ともにわれにあらざる時節」というのはその時間構造を失った状態なのではないか。
 諸法無我というとき、通常仏教で解釈されるような原理性における無なりまたは空なりというのではなく、この時間=今という構造において我はあるとしてもいいのではないか。
 私は存在する、木々も木の葉も擬態する蛾も存在する、この今、ということ。そして、その今を過ぎ去る思念なりにおいて全ての存在は我=現時点の構造を失うがゆえに無となる。
 だが、にもかかわらず、万物は運動するし、その今の関係性の中になにか、仏道とでもいえるような行動原理のようなものを生み出す。