悪ということ、少し

 Gの本で、なぜか英語で覚えているのだが、No salt, no sugar という、彼お得意のナスレデッィン風の格言があったか。意味はよくわからないのだが、塩味がないと砂糖の甘さも効かないということかもしれない。Gは直接は悪を語っていない。Gはなにかもっとぞっとするような暗黒のようなものを語っている。彼にとって悪がなんであるかはわからないが、弟子との関わりでは、人が普通に悪と思うものについては寛容であったし、彼は意図的に悪を振る舞った。子どもだったピーターズはGにある女性になぜ不公平に振る舞うのかと問うたとき、Gはそれによって人が哀れみの心を持つと答えていた。たぶん、ある種の社会的な悪というのはGにとってはまったく意味の異なったものであり、存在の高度化はそうした機能的な悪との関わりを持つものでもあったのだろう。
 ネットなどでも昔はそうでもなかったように思うのだが、ぞっとするような悪が露出することがある。あるいはそんなたいしたことはないとも言えるし、悪というのは、それほど人を全的に支配できるものでもない(ある種の機運がなければ)。そして、いわゆる善意や正義は悪の表出でもありうる。かく言う私などもそうした悪と無縁な人間でもない。
 が、日本人が自身のなかに悪を見いだすとき、日本人はというべきかアジア人はというべきかヴェイユなどもそうだから欧米人もそうなのかもしれないが、「私」の本質と悪を結びつけて自己の滅却にかかってしまうことがある。極端な場合は自死であったりする。
 ここが難しいのだが、悪は通常は、「私」の本質とは異なると自覚されがちであり、「私」という意識からは乖離・対象化できるものだと考える人も多い。単純に言えば、暢気に人を批判できる人はその手の人だ。しかし、悪というのは「私」の本質から分離はされえない薄気味の悪い物だ。
 悪はまた知の本性からもそうだ。創世記のアダムの罪、つまりエヴァの罪とは知の本性的な悪の暗喩でもある。面白いことにそうした知を得た存在は労働と性欲に存在を縛られるともしている。
 悪が「私」の本性であるなら、多様な自死の形とは善なのだろうか。日本の宗教史的な状況では、それは今でもそうだが、自分を無私に置くことで、あるいはそう無私たらんとすることで正義を得ようとしてしまう。私心無きが良いと無前提に思われている。些細なところでは、アフィリ小僧なども欲得がある=悪、という基本の構図なのだろう。あるいはそのみみっちさ=悪ともいえるかもしれないが、ではスケールが大きく儲ければいいというものでもない。欺瞞は欺瞞だ。
 話がぞんざいになるが(ちなみに「ぞんざい」という漢字はないのか)、無私は実際には善ではない。少なくとも社会の原理性を善において考慮すれば、無私性にはなんら根拠がない。ある種の宗教的信念の変形にすぎない。清廉潔白であることも清貧であることも実は善とは関係がない。むしろ、それはある種の善のような呪縛であり、呪縛性において悪と変わりはない。
 「私」の本性が悪であるというとき、その奇妙な自覚が、無私的な宗教性への渇望の形態をとらないなら、どのように人は善たりうるのだろうか。
 もちろん、そんなテーマはこれまで議論されつくされてはいるのだろう。が、私には、率直のところ、そうした議論の経緯に無知であるということもだが、やはりなにか重要な問題が残されていると思うし、何かが間違っているようにも思う。
 例えば、善と悪を外して、「常に本当を語る」ということはどうだろうか。それは、一般的にはあるいは各種の議論において、善でもあり悪でもありうるだろう。しかし、「常に本当を語る」という存在のありかたは、善悪の根底にあり、むしろ善悪を支えているなにかではないだろうか。
 つまり、人は本当を語り得る、しかし、語るかどうかの意志が問われる、という存在が我々であり、日常において、我々は本当を常に語るわけではない。
 ここでトラップめくが本当を語りえることに善の根底があるわけでもない。むしろ、この構図は、本当が「私」に局限される限定性・部分性を意味しているのだろう。
 人にもしかすると真実が付与されているとき、人はその真実を自己のものとすることは本質的にできない。であれば、自己の限定性のなかで真実を語り得るということではないか。
 曖昧な話になってきたが、人はたいてい、この世を生きている。世のルールというのは、真実は常に相対的あるいは調和的に機能する。そして、人はその相対性の利害や調和性の効率を重視して、自己に付与されたかもしれない真実を二義的にしてしまう。
 このとき、この二義性というのは、案外、「悪」として現れる。卑近な例を考えよう。ある女性が浮気をする。男の関係になにか真実がない。女は性欲に引かれて他の男と関係する。ただ、その時、彼女の性欲のなかになにかしら真実が籠もる。と同時にそれは「悪」としてしか機能しない。
 こういう事態とはなんなのだろうか。
 この例では、「罪」(罪責)というのはどのように語られるのだろうか。もし、彼女が性欲を愛なり意味づけるあるいはリフレームすれば全体の構図ががらっと変わる。しかし、人の心の深層においてそういうリフレームを本当に受け付けるだろうか。私は受け付けないと思う。であれば、関係性の真理というは本質的に罪の陰影を持ちうるし、そこまでの限界にしか人間存在はありえないだろう。
 (悪とは存在であり意志であるが、機能ではないだろう。)