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 昨日もよく泳いでいたがそれほど今朝それゆえの疲れが残っているふうではない。ただ、なにか深い疲れ感というのは当然ある。そのまま連想で、歳だしなとか言いそうになるが、内省してみるとそうとばかりでもない。意識と無意識の何かの齟齬があるのだろうが、うまく自覚できない。
 なぜ生きているのだろう。なんのために生きるのだろう。そうした問いが、実際に人生をすり減らしてみるとあらかた自明に終了する。たとえばあの20歳の時からの30年を思う。なぜ生きているのか結局わからないし、なんのためというのもだ。が、生きていることは深いところで恵みというものがある。歴史の無名の信仰者たちが賛美の詩を残してきたこと、たとえば、Amazing Grace

Through many dangers, toils and snares,
I have already come;
'Tis grace has brought me safe thus far,
And grace will lead me home.

 そういうどこしらGraceの感覚はある。ただ、それは無意識が仕掛けた欺瞞かもしれないのだが。
 先日来ぱらぱらと催眠術の本なども読む。れいの極東ブログ: [書評]催眠誘導の極意(林貞年)あたりでも思うのだが術師は催眠術と洗脳をかなり区別している。同じようなメカニズムにも見えるのだが、そうでもないのだろうか。洗脳のほうにはもっと奇妙な技術があるのだろう。と言いつつ、うまく言えないのだが、ネットや情報なのだが結果として洗脳のように機能しているように思えるこの不快さはなんだろうか。
 話はずれる。昨日の首都圏特報を見た。ネットでの「祭り」ということでれいの弁護士騒ぎと嫌韓流が取り上げられていた。やらせかよ、釣りかよ、とかつい思ったが、あれをNHKはまじめくさって作っているのかもしれない。出てきたお芋さんたちもNHKをふかして語っているふうでもなかった。ばかばかしい番組だなというだけでもいいのかもしれないが、なんとも奇妙な断層を感じ、それについて考えることもうんざりした。コメンテーターに井上トシユキが出てきた。どういう経緯なのか。と今ふと思ったのだが、ネラーとのアクセスも彼のサジェスチョンだったかもしれない。井上の話は特にどうということはなかったが、祭りの正義感で連帯できる場なのだというのを強調していた。それはそうかもしれないが、それで?みたいに思った。彼も2ちゃんねるについては内情をもう少し知っているはずだし、彼自身も仕掛けれたことがあるのだが、そのあたりは奇妙に冷静だった。と、その界隈に思うことはあるのだが、基本的に私にはどうでもいいやという感じはする。ぶくまを見るとこの話が話題にもなっているようだし、散人先生もコメントされているようだ。先生もなかなかの余裕だなと思う。
 嫌韓流は私にはけっこうどうでもいい本。ただそれがこういうふうにメジャーになる世の中かというのと、先日この本の続編みたいなものを見たが、奇妙な異和感があった。うまくいえない。どうも別の流れのなかに誘導されているような感じはした。韓国といえば、その社会の中に住めばばとても息苦しい問題があり、その息苦しさを「僑胞」は日本社会との関係性のなかで微妙にそして強く生きて行かなくてならない。韓国社会がそして日本社会がしいるものがある。よくわからないのだが、嫌韓流とかの流れで徴兵制が議論されたことがあるだろうか。韓国社会では徴兵制を薄くしていくしかない社会になってきているし、ベトナム戦争のバーターで米国移民枠を増やしてしまったことの、なんというかバックラッシュのようなものも感じられる。そういえば、サムソンのご令嬢はどうして死んでしまったのか。たまに韓国人の著名人の自殺のニュースを聞くとそこにどうしても見えないものを感じる。もちろん、日本人の著名人の自殺についても大半は真相はわからないが、日本人ならどこかしらなるほどねと思う。と、鷺沢萠のことをふと思い出す。