そういえば読書のことだがちょっこっと

 楽しい本を読むときはできるだけゆっくり読む。終わってしまったら残念な気持ちみたいなのがある。
 私はいわゆる速読というのはしないが、人から速いねと呆れられたことはなんどかある。たぶん、読み方の処理が違うのだろうと思うし、そのあたり、どうも私の誤字脱字脳と関連しているのかもしれない。というか、速読というのは、私について言えば、読みが粗い、というか、即座に理解スキームを組み立ててフィリングしている感じがする。ネットの情報もそうやって読む。むしろ、はてなユーザーの日記はあまり速読しない。というか、文章のうまげな人なら速読しても大丈夫だがそうでない文章は速読することで何かを読み落とすというか、他者という感覚を忘れる。
 気になる本はたいてい二度読む。つづけて二度読むこともある。二度読むと理解が進む。あと解析しつつ読むこともある。
 なんど読んだかわからない本もあるが、それでも読めた気はしない。ただ、そうした本はなんとなくだが、30代で終わったような感じがする。
 自分が50歳にもならんとしているせいか、著者たちの心の年齢というのが文章から透けて見える感じがするようになった。もちろん、自分より若いから劣るということはまるでない。むしろ、ああ、俺は才能ってものがないなと思う。
 好きな著作者は書籍を通して、その人というものの総体が見えてくる感じがする。もうちょっと踏み込んで言うと、病が見えるように思う。書くという行為は、それが本質的であれば、どこかしら病の様相がある。例えば、吉行淳之介など、喘息持ちでないとわからないところがあるのではないかと思うが、もちろん、作家というのは多様に開けているのでそう言い張る気はない。
 読むという行為のなかにもどこかしら病があるように思える。
 哲学書といってもそれほどまともなものは読まなくなったが、他ある種の思索書もそうだが、難しそうに見えるのはスキームが見えないだけで、およそ律儀に物を考えている人間はスキーマティックに考えているのでそのスキームが見えれば、思索というのは単純な構造をしている。
 めんどくさいのが詩情というかイメージ的な直感が駆使される文章で、これらを読み取るにはある種のその人の体臭や息づかい、目配せみたいななにか奇妙ものへの心理的な接近が必要になる。というところで嫌悪が生じてしまうことが多い。が、この手の著作家というのは熱烈な支持者がつくが、その支持者が他に理解されるわけでもないようだ。
 小林秀雄の文章は悪文である。吉本隆明の文章も悪文だ。頭が悪いんじゃないかという印象を持つ人がいても当然だと思わせるものがある。また、これはなんというのか、ある種の燦めくような言い放ちに魅了させられてしまい、その総体が見えづらいことがある。
 人は、というか、何かを書く人は、病というものもだが、なんというのか、Ultimate Concernとでも呼ぶべきなにかに取り憑かれている。これは、恋愛とか性愛にどこかしら似ているというか関係がある。こうしたもののとの読書の関わりというのは、実は読者の側で、恋愛や性愛の深い反照現象を起こしているが、その部分を語る読書家というのは少ないように思う、というのは、いわゆる読書家とは人間データベースのようになっていて、その手に愛撫の繊細さを感じられなくなる。しかし、そこに捕らわれた読書家の手はエロティックに繊細なものだ、いや、だろう。とか書くあたりでなにかしら冗談の修辞のようだ。照れるな。
 個人的な偏愛かもしれないが、失敗した作品に心惹かれる。物語が物語りの完結を忌避してしまうデーモニッシュなものの遭遇に心震える。
 なんか永遠に書き続けそうなのでお終い。