晴天、空梅雨なのか暑くなりそうだ

 若いときツバメが好きで、ツバメを見に歩いたことがある。民家とか小汚い印象の商店街でのツバメの調和は面白い絵になる。が、当時だったか改装の始まった町田駅のツバメの巣はなにか痛々しい感じがした。ツバメたちが日本に戻ったら、その風景が変わっていたということか、ツバメはお構いなしだったか。ただ、ツバメたちの住みやすい町田駅ではなくなっただろう、と思いだし、そういえば、ツバメの消えたあの駅、あの駅といろいろ連想した。悲しいわけではない。そういうものだというのがまずある。
 昨日、ある意味で名指しで人を批判するようなエントリを書き、久しぶりに、ネットでいうところの涙目状態になった。幾人かはわかってくれたようだが、現在のブログのシーンは実は抽象的なクラスターにはならない。もっと特定の人の動きが見えるし、そこを見ないで議論するのは前提的な欺瞞を含む。そしてそうした人の動きのなかに、どう釈明しようが私=finalventが存在するのだろう。ただ、その私はもう捨象してもいいのではないか。増田くらいのモデル設定ができるのではないか、そうして語ってもいいのではないかと、そういう思いがあった。だが、やはりそこは欺瞞だろう。「お前はブログにおいて何者かであろうとしているのではないか、そうした意志のようなものを、仮託したりポーズをとって隠蔽しているだけではないか」と批判されれば、その批判は当たっている面があるだろう。ただ、その当たり具合は、私の内在の側の問題ではないし、私の内在の側としてみれば、「finalventってバカだな」で終わる問題だ。そしてそれが、ブログの場においてそうであれば、私=finalventは消えているだろうし、実際に消えかかってもいる。が、その消え具合について、つまり、ブログ現象として、別の言い方をすれば、ある種の局面を語るために指示すべきかもしれないブロガーという照射された現象として、その意味をどのくらい私の内在が受け取るべきなのか。たとえば、「皆さんの見ているfinalventは幻影ですよ」と私が呟くとき、そのくだらなさは、「finalventってバカだな」と名指しされる愚かさなのか。
 もう一点、極東ブログについては、端的に言えば、二流知識人による知識人ごっこの域を出ないという批判はあるように思う、まあ、そこまで関心を持つ人がいればの話でもあるが。ただ、これも私の内在からすると、私の公的な関係性に置かれている社会の関わりのなかでの発言ではない。私は日常の生活や普通の社会生活において、知識人としては存在していない。もっと端的にいえば、対価を得るような形で自分の知識を問うという、まっとうな関係性に立ったことがないし、おそらく立つこともなく、立てることもないだろう。ここは私の側からすれば誤解されているなと思えることだが、極東ブログに書いたことにはほとんど専門領域がない。専門的に自分がありえないという前提に立っていることもだが、高校生くらいが普通に物を考えれば書けるレベルのことしか書いてない。もう少しいえば、多少英語が読めるくらいに英語のリソースが使えればいいというだけだ。なので、そういう人たちは潜在的に多数存在するだろうし、その人たちのブログシーンの登場で、私=finalventは消えていけばいいだろうし、原理的にはそのようなものだ。しかし、4年も経ってみて、そうだなだいぶ消えたなというのと、消えたのだろうかよくわからないという部分はある。
 具体的に例えば最近の例で、ミンチ偽装事件について言えば、ミートホープという個別の詐欺的な行為よりも、公の場に還元された(法の下にある)個人にとってこの問題の全体構図からすれば、個人に食を届けるインタフェースにおいて責が発生するようになっている。この事件でいえば、加ト吉と生協(他もあるかもしれないが)に責が問われ、そして公である農水省が問われなくてはいけない。というか、公の場に還元された(法の下にある)個人とってミートホープは原理的に見えない。だが、マスコミはそこを可視であるかのように見せるし、個人がミートホープを罰すべき超越的な、公的な正義の幻想を撒く。
 知識人してみれば、こうした構図はただのお笑いでしかないし、実際のところ一時期の空気が醒めれば消えてしまうものだ。だが、知識人はそこでどのように語るだろうか。語らなくてもいいのだろうか。という問題以前に、知識人や専門家が語るということは、特定の限定性を受ける。出版なりメディアなり、つまり知識人や専門人が社会に存在しうるような対価の関係性に置かれる。これには良い面もあって、単純にカネにならないことは言わないというのは、幻想的な正義を知識・専門の看板の下で語る危険性への回避にもなる。(カネにならないことを言うなら、糞ブロガーに徹すべきだろうなと思うというのもあるが。)
 と、時間だ。特に結論もない。あるいは結論は先験的に存在している。