曇天、一日曇りだろうか

 少し暑さは引きそうだ。
 ネットで語るとネットの文脈があり、その文脈の磁場のようなものを受けざるをえない、というようなある種の防御のような感覚があるが、それが反ってノイズのようにもなる。
 よくネットに張り付いているなお前みたいに言われるが、それについては否定も肯定もしない。たぶん、いずれ消えるだろうというのと、そうではない人生のほうが大きかったんだよ、というのはそういう文脈ではまったく伝わらない。
 伝わらなさと誤解、というのも、単純に言えば、私の側の思い込みでもあるし、ひどい言い方をすれば伝わるわけもなく理解もありえないという、ある種の絶対性というものがある。むしろ、理解というのはなにかしら称賛というかそういう傲慢ななにかが潜む。
 昨晩思いついたように北森嘉蔵のことを少しだけ書いた。バルトは彼の神学を否定とまではしないせよ異教のように見えたことだろう。そういえばバルトがティリヒをどう語ったかというのを知らない。たぶん、知っても意味がない。
 バルト神学は数学のような趣がある。たぶん、バルト神学はきちんと整備された公理系のようになっているし、また彼自身の感性も正しく、おそらくキリスト教とういものの神学というはああいう構造をしているのだろうし、たぶん、プロテスタントの信仰とういうものもそうだろう。
 ただ、私にはほとんど魅力がない。
 話は変わる。
 ダルフール問題についてあまり語らなくなった。今語ればただ中国バッシングの文脈にならざるを得ないだろうし、なんというのか、かつて私がダルフール危機について語ることに不快を示した人々・それを背後からバッシングした人々、そうした人よりも、中国バッシングの文脈のほうが私には、統制が取れないだろうと怯える。統制、というものではないな。手に負えなくなるだろう。私は旗を振らない。
 だがファーローの活動などを見れば、中国を叩くことできちんとスーダンに介在させ、多少は問題に変化を与えている。それはきちんとした政治の文脈で正しいともいえるだろうし、そういう正しさを持ち合わせている人は、日本にはほぼいない。
 歴史の中のいくつかの虐殺を語り、その正義を語り、その正義のゆえに結果的に暴虐な言説をまきたらした者たちが、目前の虐殺を看過した欺瞞を私はたぶん許さない。だが、許さないといえる何かを私がもつわけではない。まったく私には正義などはない。
 ただ、無意味に殺されていく人を看過することに、たぶん、どうしても大義を付けることができない。その絶望感だけが自分に確かなものとしてある。簡単にいえば、私はこの、その線の上で、知性というものをまったく信用しない。目前の虐殺に否をつぶやかない知性になの意味があるのか。(もちろん、虐殺はダルフールだけではない。そうした虐殺への関わりは各人違うとも言えるだろう。だが、あれは、大規模なジエノサイドなのだ。)