システム・スルー力というのでもなくなんというのか

 その前に、システム・スルー力……低PVブロガーからの罵倒などはメカニカルにスルーしていいでしょ……は以前ちょこっと書いた。
 で、なんというのか、その場合でも、罵倒者さんによっては、コメントやトラバやリンクとかでなんとか私に訴えようとするけなげさがあるのだが、そうでないと、まじ存在も知らないことがある。というか、私の知らないところで私を罵倒するのは別にどうというものでもないのだが、なんかのきっかけで、ほぇこんなところで私に向けた罵倒があったのか化石とかGoogle経由とかで見かけることがある。が、当然、忘れる。というかほとんど記憶に留めない。でも、少しなんとはなしに記憶に残っている部分もあって(というかなぜ罵倒されるのか思い至らないからだろうが)、というか、そういう罵倒者が他でも同じようなことをやっていて、そっちでモメゴトを起こすことがあるので、そういえばと、なんとなく思い出す。まあ、それもご勝手にどうぞ、ネットの自由さを満喫したらいいと思うのだが。
 なんというのか、罵倒を投げかけそしてモメゴトを起こすというのが、ある種のオブセッション(強迫)になっていてそれを反復しているのだろうなというふうに思えるし、それは特定の誰とかいうのではなくて、そういう類型の人がいるのだろうと思う。
 もうちょっというとそういうオブセッションに巻き込まれてしまう自動運動みたいのがネットというかにあるのだろうだが、率直に言うと、そのオブセッションというか運動が、き・も・い。単純に、歩道に犬の乾いたウンチがあったら、踏まないようにしようかみたいな感じなるというか、ある種の自然な嫌悪感のようなリアクションがある。
 別の言い方をすれば、オブセッションというかオブセッシブなそういう人が恐いとも言える。ちょっと、私なんかが対等になれる感じの病理じゃないなというか。
 かく言う私は、たぶん、変な人なんだろうし、ある種の精神的な病理傾向があるのだろうと思うしというか病理そのものかもしれないのだが(自分ではよくわからない)、そういう自分の偏向性が、先の自然な嫌悪感とバランスしているのだろうか。
 まったくもってわからないのだが、悪い人じゃないのにそういうオブセッシブな関係に巻き込まれていく人もいる。それもなぜなんだろうか。正義感のようなものだろうか。
 と顧みて、自分にはそれほど正義感はないような気がする。自分が変わってきたのかもしれない。
 なんかネガネガなことを書きたいわけでもないし、ちょっと単純にこう言うのもなんだけど、ネットというのはけっこう低比率で出現する攻撃的な変な人を抑制するシステムがあればけっこうきちんと機能するようになるんじゃないか。
 つまり、ネットイナゴみたいなものは別途回避するとしても、そうしたヒステリックな状況のシーズを撒く才能の持ち主を自然に抑制するような情報システムというのはなにかインプルメントできそうな気がする。ブラックリストとかではなくても。