梅雨に入ったかな、曇天から雨か

 ニュースは見てないが、天気図を見るとややそんな感じだ。今日はこれから雨が降りそうだ。昨日のニューズウィークを見て、ああ明日は木曜日かと思った。今週は速かったな。いろいろ動きがあるにはあった。疲れもした。
 否定的なものや情報とどうつきあっていくのか、そう言葉の上で考えていけばいろいろと言葉も紡ぎ出されるだろうが、まずあるのは感情のいらだちのようなもので、そしてそれはとても等身大の自分に近い。そして否定的な感情はすでにそうした否定的な情報の受容であり、少なくとも主観的には否定的な情報があると見なしている。そのあたりの自分の認識の誤差をその否定的な感情のなかで修正するのは、多少努力がいるし、そうした努力を無意識に働かせているのも疲れることではある。
 こうした状況はネットばかりではなく、むしろネットは社会のそうした陰を色濃くしているのだろうが、たぶん、そうした否定性はある倫理の崩落かもしれないと思うし、では私にそうした倫理があるのかと問われるとまた言葉は空回りしていく。
 ネットの罵倒とかがこのところ話題のようだったが、ぶくまやエントリのオヴァートな罵倒(それはほとんど問題ない)や、あるいは増田や2ちゃんなど匿名が企図されている罵倒(それはただシステム的な強度だけが問題)など、ある意味どうでもよく、コヴァートな罵倒としての集合性が問題だろう。どうしてこんな下品な話題にぶっくまーくが300個やめてちょーだい♪的な状況だ。それを衆愚と言ってもいいし、それらを批判することも言葉の遊びとしてはできるが、問題はこの無自覚なコヴァートな悪意を自分というか発言者というのはどう考えたらいいのだろう。それは反面支持ということとも同義でもあるし、なんというか、孤独感のもつある種のいらだちと、少なくとも私のなかでは結合している。率直に言えば、私は他者と対話しているというか言葉を投げ合ってもそれほど通じてるとは思わないし、人は私の言葉が不完全だと批判することが多い。だが、そのとき、私が見ているものは、人々というプラスチックの仮面に覆われたオブジェのようなもので、そこで私は孤独に震えている。あるいは、プラスチックの仮面を剥いで現れるあまり露骨な暴力だ。だが、たぶん、その暴力性は愛というか恋の情熱とも関連しているのだろう。