ちょっとだけ

 エフェス郊外にあるマリアの教会への坂道を上りながら、ふと脇にパウロを幻視のように見たことがある。正確に言えば見たわけではなし、見えるわけではない。現代人の言葉でいえば想像したというものだが、経験的は強烈な被受性があった。まあ、それは通じる人には通じるだろうが。そして辿り着く高い小アジア半島の空の下で、マリアやイエスについても同じように、その教会の湧き水を飲みながら思った。黙想した。
 イエスパウロは私の前に立ち、弱いことは恐いことですか、強くなりたいのですか、あなたが本当に最も弱いときに私=イエスが代わりに立ちます、なにも恐れることなく、その弱さと傷つきやすさだけを大事にしてください、そう語られたように思う。そしてイエスはいつも世のもっとも弱い人を私が覗き込めばそのなかに立ち、振り返って私を遠く見つめて微笑んでいる。私=イエスはここに居る。いつもいる。あなたが弱い人を見つめているなら私=イエスはいつもそこにいる。
 それはやや私の深い信念になっており、そこだけ考えれば、私はクリスチャンのようなものなのだろう。ただ、そうした世の中のことは私にはどうでもいい。
 パウロは強くなろうとした。しかし、強くなれなかった。主はパウロを本源的に挫かせ砕き、そしてそれを恵みだと伝えるべくその人生を引き回した。それはパウロにとっては恵みであっただろうし、パウロの弱さそのものがイエスの強さであった。パウロが私は自分の弱さを誇ろうと語るとき、それはただ単純にイエスとの出会いがあった。弱い人、苦しむ人があればパウロはためらいもなく歩み出した。
 話が少しずれるが、シモーヌ・ヴェイユは世のありかたを重力として、己の真空こそが恩寵だとした。彼女は奇妙な言葉を語る人だったが、言葉づらの奇妙な様子をとりあえずおいて、彼女の実践から言葉を見ればまったく誤解を招きようもなくクリアだ。つまりそれはそのままだった。彼女は、己の真空を身体に引き寄せて、そして実際的には自殺してしまったも同じになった。自分が弱いこと無であることを身体性に及ぼしてしまう、ある種の炎のような恋情のようなものが彼女のなかに発生した。パウロはなんと言うだろうか。マリアはなんというだろうか。イエスヴェイユのなかでどのように語ったのだろうか。
 私は率直に言えばヴェイユのなかに悪魔的なものを見る。だが、かく言う私にも、またあのパウロですら、ある種の悪魔的なものから無縁ではなかっただろう。力そのものが悪をもたらすのか、弱さのなかに立ち現れるイエスはそこをどう私に伝えようとしているのだろうか。私はそこが今もわからない。