都知事選傍観者がなんとなく思うのだが

 ネットでは外山というのかその方面では有名な人だったのか私は知らないのだが盛り上がっていたが、ま、端的に言えば私同様、都知事選に関心ないという延長だろう。
 ネットではまた反面石原バッシャーが2オクターブくらい高い声を上げていて芳しい。っていうか、その声が普通の人にドンビキなのに。
 で、気になるのは、石原がどのくらい票を取るのか。
 基本的に棄権は多いだろうと思う。つまんない選挙だし。そうなると、組織票が浮かび上がってくるはずだが、それがどのくらいなんだろうか。
 まあ、ちょっと言うと、ネットだと公明党批判が多いが、現実の都民の生活では公明党というか創価学会は多い多い。そして末端はどうもべたに末端っぽく、そのあたりは、実際に社会的弱者に連結しているので、考えてこんでしまう。こういう層こそきちんと民主党でも社民党でも拾えないものだろうか。
 これとか大した本でもないと思っていたのだが。
 

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創価学会: 島田 裕巳
 どうやら少なからずが、創価学会の会員たちは、自分たちの組織のバーズアイ・ビューを得るために読んでいるらしい。末端はどうも自分たちの勢力がなんなのかわかってないし、また、彼らの立場の側を想定するとなんとなくわかるが、創価学会バッシャーの声もオクターブ高すぎで、きょとんとしているふうでもある。
 まちょっと外れるけど。
 これは団塊世代の暇の影響なのかもしれないけど。
 政治性の言説のオクターブが高すぎというかレトロすぎて、実際の大衆にまるで届かない。あまり触れたくはないが盛り返そうとしている従軍慰安婦問題も、実際の庶民レベルではなんらリアリティがない。こういうとなんだが、私が子供のころは、娼婦上がりの女性というのはそう見えないものでもなかったし、大衆は差別もしたがかばいもした。なんというか、娼婦上がりであろうが人情のわかる人間には信頼を寄せるという暗黙のルールがあったし、彼女らの苦難の経験の意味を共有しあえるものがあった。
 で、そういう人々が死んでしまって、あの暗黙のルールの感覚が消えてしまっている。かろうじて歴史感覚として持っているもっとも若い世代が私で、50歳だよ。もうだめだめ。だめというのは、あの世界をどうやっても伝えることなんかできないのだというのはひとつの割り切りでしかたない。
 話はさらに逸れるけど、増田とか、ま、ゴミ多しなんだが、それでもけっこう痛い。とか言うと、お前の日記のほうが痛杉とか脊髄反射されそうだけど。でも、ま、増田の痛さというのはなんだろと思う。あの痛みというのは、悪くないというか、普通の人間が歴史や政治や不運あるいは社会というものにぶつかったときの普通の痛みだと思う。その痛みのなかでなにが連帯的に解決できるのか。それと世界の大枠はどう繋がるのか、そういう思想が現状では見事なまでに欠落していると私は思う。
 どうなっていくのかよくわからない。ただ、はてなの中にいると、若い世代でも普通に賢い人間は普通に分布しているように思う。そのあたりがどういうふうに生活思想を編み上げていくのだろうか。私はその側にいたいと思うし、甲高い声、きっつい。