頼藤和寛の死を昨晩は考えていた。
池田晶子の死の連想だが。
わたし、ガンです ある精神科医の耐病記: 頼藤 和寛 |
彼は五十三であった。
自分の残された時間は五年かもと思ってやりきれず、なんとなく深夜のコンビニに行くと若い人がたくさんいた。ビールを買ってきて飲んだ。
告白めくが昨晩は日記だのブログだの書こうかと思って、なにも書くことができなかった。なんとなくネットを巡回しても自分の関心にひっかるものもなにもなかった。
何も書けなくなったら無理をせず、ブログもやめようと思っているのだが、そのあたりがよくわからない。
いろいろ思うことはあるが、思いをそのまま書くこともできない感じはする。これは匿名うんぬんの問題ではなく、自分と書くという行為の間の問題が大きい。
ふと、アマゾン素人評を見たら。
かくて著者はガンになった。発癌物質を吸い続ければ、大腸ガンになっても何も不思議ではない。また、病気の兆候が出ていても、病気と認めたくないばかりに治療を一年近く遅らせてしまった著者の姿から、読者は学ぶべきことも多い、反面教師とし!て。
すごいこと言うなと思う。まあ、それはそんなものかでもあるのだが。
頼藤の煙草は彼の心に結びついていた。自身が精神を扱うのでありながら、そうしたことがわからないでもないだろう。つまり、依存ということで、発ガンということではなく。
人は、己のことだけはわからないようにできている。
そしてその無知を突かれて死ぬことも多い。
ただ、そういうものだというしかない。
そうした無知は他人からよく見える。
私を罵倒する者たちは、彼らの存在の因子をゼロにすれば、その罵倒の言葉はおそらくかなり正しい。ま、大半は社会因子やその罵倒者の因子が大きすぎてよく見えないのだが。