まあ、ごく簡単にだけ

 のわりに長くなったけど。
 ⇒しつこいのはいかんのですが : おしゃべりSchwaetzerの飲んだくれな毎日

 私、他者から見れば否応なく「関西の人」でもあるんです。ネットでよくやる「アンチ東京関西人」キャラじゃなくて、言葉以外のごくつまらないことからすぐばれる。そういうことが抜きがたくあるのに「日本」という超越した立ち位置で偽装してもらいたくないです。。。というのは半分シャレですが、半分本気です。
 「他者から見れば日本人」と単純に言えるのは、そう見てくれる「他者」を選んだ上だからです。つまり、「他者」と言った瞬間に、期待しているある「自己」を想定してしまっています。

 洒落に突っ込むのは野暮なんだけど。
 あのですね、問題は、自己とか他者とかいう抽象レベルの問題ではなく、内在的には自覚のない「民族」がどのように民族的な自覚が生まれるかという普遍に接近する場が問題なんですよ。
 他者による一般規定ではなくて、人が世界=普遍を志向したとき(国家を超えようとしたとき)必然的に生まれる民族という幻想性の相としての存在の問題。つうことで、民族と国家の宿痾がまるで理解されてなげな。
 つまり、おっと、そこは土俵じゃないぜ枡席だぜみたいな議論はちと。

そのようにして「日本」から出発しうるのは、現代に生きるfinalventさんの断定(という表現が悪ければ「個人の選択」)じゃなかろかと、ただそういうことです。

 そこは単純に、あなたは普遍を志向しますか、ということですよ。それを個人の選択というなら、我々の倫理性への模索は全壊するわけです。まあ、全壊してもいいのだけど、まあ、単純にいうとまた80年代ですかぁ。うへぇというか。
 我々は世界システムのなかにいる。それが何万人もの虐殺を生む構造を抱えている。でも、オレっちには関係ないっすと言いうる権利というのは保証されていいと思いますが、それって、議論にはならないというか、他者との対話の言葉ではないと思うのですよ。
 しかし、世界は他者との対話を求めていると私は考えている。
 たとえば、Sudan: The Passion of the Presentというブログがある。彼は他者との対話に語りかけようとした。ではそれにどう応答しましょうか。そういうとき、まず彼から私が日本人に見える、というだけのことです。
 たらたら書いてしまっていけないけど、とてもシンプルなことなんです。

・・・とここまで書いてきてはたと気がついたけど、finalventさんも「歴史存在」を「日本」だけに限定しているのじゃなくて、なんせ自分はいろんなレベルでの存在の規定が可能だから、そのいろんなレベルの中の一つとして「日本」をとりあげただけか、とも思った。

 ま、そのあたりを分かってもらうべく、あえてパウロユダヤ人の問題に前回は踏み込んだのですよ。

そういうことなら、我ながら絡みが過ぎたんだけど。なんか私の言ってること、おかしいかな??

 あまりけんか腰にとらないでほしいけど、私ことfinalventはですね、こう思うのですよ、「あーまたへんちくりんな誤解がスプレッドしているな」と。
 ただ、ネットゲシュタポみたいに私をトラップさせようと目を光らせているふうでもないし、テンプレ左翼のリングでfinalventをぼこぼこにしてやろうぜ野郎ども、でもなさそうだし、わけのわからない壊れた絡み屋でもないし、そしてそれほど規模のなさげなブログとかなら、誤解されるのはしかたなないというか、あるシステムの関数だと思うのですよ。
 だから、それほどどうということではないし、あと、私は、なんかこうやってへのへの書いていると誤解されまくっている被害妄想のように見えるかもしれないけど、私はある一群の人からは理解されているだろうと思っています。これは別にベタに全部受け入れろという意味ではないです。(理解してくれる人ほど、私を呆れた人だという前提認識があるでしょう。)
 なので、まあ、どうでもいいかということではあるのですが、最初に悪意ありきのコメントでなければ、それはちょっと誤解でね、とは言うけど、失礼なやっちゃなとまでは言葉に出しませんてば。