自分を騙すための微妙な嘘について

 詳しくは書かない。詳しくは書けない。
 自殺の多くが、実際には、意識内の他者性の分裂で、その他者から死を命じられるものではないかと、ちと書いた、その補足。
 人の意識というのは無意識の大海を小舟のようにたゆたっているように私は思う、というか、私は自分の意識の大半は無意識だと思うし、無意識というのは身体(内臓とかも)の意識でもあるし、それは私の祖先たちがある意味で生きて意識している場でもあるとは思う。まあ、キンモーなこと書いているようだが、これは慣れるととても自然なもの。
 ほいで、意識を静かに見ているというか、静かでなくてもいいのだけど、意識のなかで、抑鬱、嫌悪、恐怖、孤独、悲痛、自己憐憫、といったある感情=存在があるとき、それは意識のなかで、自我意識がそれを対象化していることの告知として現れる。
 ところがこうした初存在はある気分のようなものに包まれていて、まあ、ハイデガーのいう気分とは存在なのだというのはそういうことのようだが、哲学の話は割愛。
 ほいで、そうした意識のなかでの対象性の向こう側に、自意識のクローンようなものが薄ら見え始める。ちょっと奇っ怪なことをいうと、おそらくその背後にはもっと巨大な「影」があるのだろうが……。
 いずれにせよ、意識が対象化した感情=存在が、それなりの取り繕いのなかから意識クローンを生み出せばそれは、意識=私に死を命じかねない。こうしたメカニズムは意識それ自体の自死の大きな自然なフレームワークのうちにあるのかもしれないが。
 ほいで。そうした意識クローンが実際には私=意識と交錯し、「死」をもてあそぶようになると、すごい危険なことになる。(たぶん、死はある種の究極の快楽を暗示しているからこういうことになるのだろう。というか、生物はたぶん死ねるように意識内の最後の機構を持っているのだろう、南無南無。)
 ほいで、そうした、死を命じかねない意識クローンがどのように、つまり、感情=諸存在をまとめ上げるかというと、たぶん、意識=私、の側に嘘をしかけるからだ。
 孤独や自己憐憫のような諸感情が対象=存在化しているとき、かすかに微妙な「嘘」がある。この嘘とどう向き合うかというのが、自殺圧力の高い人が生き延びられるかどうかのテクニックというか鍵のように思う。ま、違うかもねだけどね。
 こうしてでろでろ駄文を書いてしまうのも、そうした「嘘」のメカニズムの一貫でもあるかもしれない。
 どうするどうするライフカード
 なのだが、ひとつの指標は、快活さだと思う。生きるという側の最後のウェポンはべたな快感である。嘘を交えないような快感=快活さをうまくバランスできればいいのだと思う、っていうか、単純に言えば、自分を笑えよ。快活に。愉快に。