日経社説 いじめの現実を直視せよ

 直視してどうとなるものではないよ。戦前戦後を通して変わらない日本社会の宿痾なのだし。それが日本人というものだ。
 以前書いたこと⇒極東ブログ: 長崎県佐世保市、小六女児殺害事件に思う
 いじめにどう向き合うか。どう直視するか。というか、誰がどの立場で直視するか。
 わたしは子供のころにいじめられた側だったし、おかげでそこから人間と社会を学んだ。私が学びえたかすかなことは、ある種の、卑しさを嫌悪する感覚だ。decencyというのだろうか。日本語でなんというかいまだわからず戸惑う。自尊心とも誇りとも品性ともちょっと違う。卑しさを嫌悪するだけではなく、卑しさを洞察する感覚でもある。うまく言えないので、言うだけ誤解されるのだろうが、私は自身を弱い人間だと思うが、いじめの関係の人々のなかに、ある種の悪への弱さを見る。教条的な正義を語る人にもそれを見る。ここはうまく言えないのだが、いじめの関係性のなかにはある種の性的な倒錯的な快感と恐怖のような支配への屈服があるように思う。私は、その屈服がとても嫌なのだ。この感性はもう幼稚園児のころからがんとしてある。いじめる側、傍観する人々へのおぞましさの感覚だ。ではいじめられる人は? ここがうまく言いづらいのだが、子供ながらに思ったのは、「私をいじめるなんておぞましいことが許されてはならない」とういものだった。
 まあ、うまく言えない。
 ので、こう言うとなんだが、ある種の人の馴れ合いとか、なんというのか匿名で掲示板とか匿名的なコメント欄で語り合う人たちにも似たようなおぞましさを感じる。まあ、そういうえば陰口を言われるのであろうし、そういうのを誘発したいわけでもない。