ネットと多数決というかなんというか

 長くネットの世界にいて、若い頃は血気で無用ないざこざを起こしたものだし、いろいろいざこざを見ていきた。さすがに思うことがいくつかある。
 ネットの中の口論というか罵倒の投げ合いとか、その勝敗は基本的に沈黙の観覧者が自然に決めている。そして決まった結論というのは、明示された言葉になっては出てこない。ただ、月日が経つと、すでに勝敗は決したものとして別の話題のなかでなにげに参照される。
 で、そういうなかで負け側の特徴だけも言い切れないのだが、勝敗の内側の問題は、いざこざの内部にいる人が、その沈黙の閲覧者をどう理解するかにかかっている。
 ここで一番重要なことは、身の構えとでも言うべきことで、自己の正当性を主張しているとき、実は負けているということだ。このあたりはなんとも身の構えとでもいうようなちょっと微妙な感じ。武道でまず受けの構えと取るような感じ。攻撃の構え自体が弱点にしかならないような状況がある。
 似たような状況に、言葉の踏み絵や地雷をを踏ませようというな魔女狩り的なシンプルなフレームワークを構築しようとしているとき、その側は負けている。この場合、論点をそらすなと声高にいうが特徴なのだが、実際には、その踏み絵自体がその人やグループの正義化していて、論争はその正義化の絶対化への批判であるのにまるで理解しえなくなっている。臨界点を超えてしまった標識でもある。
 というか、議論の前提条件の相対化・批判化の視点を持たない状況になったとき、議論は終わっている。もともと沈黙の閲覧者は議論の両者も支持していない(支持の傾向はあるにせよ)。双方とも支持しえないようなある異和感だけが沈黙の閲覧者というものを規定している。そこには議論前提の相対化・批判化への直感が含まれている。(なので前面に出て来ない。)
 匿名者が一方を正しいとするとか罵倒に応援したときも、やってる本人やグループは勝った気でいるけど、実はもう負けている。というかその場合は匿名がマイナスにしか作用しないというか沈黙の傍観者からは彼や彼らは不審者か仮面者であるかにしか見えない。
 ネットの議論の勝敗は、完全な形では決しない。もともと、ある対立グループの顕在化でしかないことが多いからだ。その意味で、議論を決しようとすること自体が、そもそも間違いであることが多い。やってもやらなくてもいいことをやっていることになる。この場合、議論の意味があるとすれば、ただ以前からあった対立の顕在化部分をどう批判的に乗り越えていくかにかかっている。ここも沈黙の閲覧者と同じことになる。
 で、議論の勝敗が完全な形で決しない場合、ネットの中ではどのように議論の支柱が保持されるかというと、その視点に立つと、実は、沈黙の閲覧者自体が、友愛のようなものに相対化されてしまうことがある。
 「あの人のあの言葉あの血みどろの戦いを私は愛する」と心に刻む人との見えない関係性だけが残る。問題はそれをどう党派性に帰着させないかが、最後にネットワーカーというかブロガーというか発言者たちに残された課題というかモラールになる。