国家と共同幻想と法と一般意志

 ま、たいしたこと書くわけでもないが。メモ。
 吉本的にいえば、共同幻想というのは発生してしまうもの。宗教と同じ。そしてそれが国家ということで、国家というのは宗教と同じと言ってよいことになる。
 他方、いわゆる西洋的な民主主義の考えでは、国家は国民から貸借関係的に疎外されるのだが、それは結果論というか後付的な説明なのか?
 国家の機能は一つには、社会から個人=市民を守ること。というか、個人=市民は国家がなければ社会に抹殺されかねない。その個人=市民というのは、むしろ、国家と共時的に発生しているとしかいえない。
 超国家において市民は比喩以上には成立しない。つまり、世界市民的な概念は成立していない。その希求があるにせよ、国家から超国家への移行はその統合なり基盤としてはできていない。
 逆の方向からいえば、超越的な正義、というものは成立しづらい。
 ただ、国家の機能は、その内部の国民=市民からは、正義の希求となる。保護というか。
 で。
 法とはなにかだが。
 これがルール論に収斂しないのではないか。
 社会というルールがあり、国家というルールがある、と言い得るか? 竹田青嗣はちと別のほうこうから社会のルールと国家のルールを志向し、むしろ、社会のルールの側に市民と個人を置いている、が、それは間違いだろう。
 社会がルールを持ちうるか。もちろん、持つ。というか、伝統社会という言葉ではないが伝統性がルールたりえる。が、その伝統ルールのなかに市民は存立しえない。
 ルールと法とはやや異なる側面がありそうだ。
 で、法なのだが。
 法は、いろいろあるにせよ、究極的には、国家を縛るためのものとしてある。なぜかというと市民から貸借された権力だからだということになるのだが、それはさておき、市民=国民への正義の利得性の標識になるからだろう。
 つまり、法によって国家は正義の代理たりえているというわけだ。
 ここから必然的に法と権力=国家を巡って、立法、司法、政府(行政府)=国家=権力、という制度が必然的にできてくる。
 で。
 この国家と正義だが、いかにも市民=国民の側から、結果的に権力が貸借関係に置かれるようだが、この国家の法というのは、ルソーのいうように一般意志としか了解しえないものではないのか。
 というところで、一般意志について、また考える。
 ちなみにネットをちと見て周る範囲ではほとんど考察はない。英米法や英米的な哲学では一般意志(general will)というのはほとんど議論されてないようだ。
 ただ、ちょっと短絡するが、市民=国民というのは、まさにそれが原象として抽出されるとき、一般意志としてあるのではないか。
 むしろ、一般意志が市民間の利害調節なり正義の執行という権力の関係におかれざるがえないゆえに、国民=市民から権力が国家へと委譲されているということではないか。
 と、いう過程が、いわゆる共同幻想というより、人類の歴史意識の到達性としてあるのではないか。
 っていうか、ベタにヘーゲルかよ、俺。