植草先生のことはわからんが

 なんとかくああいう問題もまた言及しないがよかろうと思うようになった、冤罪とかそうではないとかいろいろあるとして。
 前回は刑が確定したので、市民社会的には、彼は痴漢。しかし、その処罰を受けたので、今はそうだというわけでもない。
 今回も刑が確定したら、社会的な判定は下る。
 ま、それはそれとして。
 植草先生と限らずだが。
 世に痴漢というか多い。お変態さんも多い。フロイト的に言えば幼児の原型は多形倒錯的なものであるからむしろそれがどう、生殖器愛に陶冶されるかということではあろうが。理論もどうでもよいとして。
 そういう欲望が存在を覆うというのが、何かしら、私にはわからない。
 たとえばある痴漢がいて若い女の尻に触れたいとする。が、そこで私は多分誤解しているのだ。尻触るくらいならカネ出して触らしてくれる女で我慢せいとか思うのは誤解なのだろう。快楽、快感が問題ではないのだろう。
 そうではない(許されない)女の尻を触りたいという禁忌を存在が情熱を持って超えていくわけで、なんつうか、ある意味、その欲望のためには死んでもいいという、死の乗り越えの超存在的なものが現存在に開示される瞬間なのだろう。
 別に難しく言いたいわけではないが。
 ただ、それでも、存在論的には、死の乗り越えという構図にあるのではないか。
 そのプラトーを超えていく、一つのプラトーを超えるという欲望によって、死を超えようとする存在の本義というか。
 あと、栗先生とか(類型理解としての「とか」だが)、女=欲望=他者の欲望(=自己の乗り越え)というより、ある多様な女のすべてを知りたい=欲望=コスモス欲望、とでもいうものではないか。知というのもそうした派生であろう。コスモス欲望というのは死の乗り越えというより、死の了解なりその棘の無化のようなものかもしれない。
 知の究極にあるのは、死を了解し、存在のなかに内包することだろう。
 違うか。
 ま、私の中ではそのどちらも死滅しつつあるような感じがするが。
 と、書いていて中断。実人生とは野暮用。