話は比喩的だけど

 ぶくまのほうで⇒はてなブックマーク - オナニーはもういいかなって思ってる。-モテゼミ
 ま、リアル・オナニーなんかどうでもいいのだが、と。(というか、歳食って人生に死のクリフが見えてくると性欲なんていうのは死というか無の恐怖の震撼との関係性に置かれるが……。)
 で、ぶくまのそれと話題が違うが。
 ブログのことをオナニーだと比喩的に言う人を時たま見かける。つまり、ブログなんか書いてるのはオナニーとおなじー(ちょっと痛い洒落)というのだろう。
 まあ、どうでもいいので、ふーんとも思わず、読み過ごすのだが。
 なんというか、文章を書くこと=精神的なオナニー、だとして、で?
 それがなにか?
 コンビニ行って握り飯買う……つまり腹が減って一人食べ物をとりあえず食う……食欲のオナニー?
 と、書いていてそういえば。
 そんなことを書いているのはオナニーだとかいう輩は、なにか、そうではないご立派な場所でご立派な文章を書くべきという価値観をもって諭したいのであろうか。
 つうのは、オナニー=駄目、おセックス=宜しい、ということか。
 だとしたら、その価値判断はかなり、あほくさ。
 私の世代くらいで終わるのかわからないが、政治的な言動は実践が伴わないと駄目だ、三里塚に行けぇみたいの、わけわかんないのがあった。
 今では逆に、ダルフール問題とかいうのはおまえ自身の正義の錦の御旗だろ批判みたいなものに転換しているようだが。
 私にしてみると同じ。小さく良心を持つというだけでそれ以上は思わない。
 自分が無力であることは何も問題ではなく、ただ、運命というものの類。
 くだらない駄文を書いていて、しかも人様に迷惑もかけてないというか、最低限でこそっと書いていて、で? 虫が鳴いているのと同じ。
 つうか、人間なんて大半は無意味な存在だが、無意味な存在を大切にしていこうとできるだけ小さく考える、書く、そんだけのことで、そのバリエーションがいろいろあるというだけのこと。
 多生の縁というか。
 人間が人生の内で、多少なり通じ合える人なんてそうはいない。有名人でも同じだろうと思うが有名人でないからわからん。
 親ですら、なんでこの人、親かなぁと思うくらいだし。
 ま、文章というのがあって、たまたま読む人いて、なにか思うことがあれば、多生の縁というくらいで、オナニーだ云々とかご評価賜るほどのことはないんじゃないか。
 つまりそれは縁無き衆生っていうだけのこと。