歳をとることの危険さなのかな

 ⇒MORI LOG ACADEMY: 歳をとることの危険さ

 僕も歳をとって少しわかったが、年齢が上であるだけで、なにかをなした、若い奴らよりは偉い、そして、もうなにも恥ずかしくはない、と錯覚できる傾向にある。神経が鈍くなった証拠だ。結局は思考停止へ向かっている。それが危険だということ。

 私の場合は。
 「なにかをなした」感はない。実際なにもなしてない。自分の人生は無駄だったなぁというか自分の人生というのはまさに自分のプライベート・セクターの問題だなと。つまり、「なにかをなした」感はパブリックなセクターの問題なのではないか。その関わり方というか距離感が固定化しているのであまり問題意識にならない。
 「若い奴らよりは偉い」とはまるで思わないが、どうもブログなどではそう思われてげ。
 こんな感じか⇒真性引き篭もり/entry finalventのことかーー!![自虐ネタですか。お盛んですね。]
 ただ、そう見えてもしかたないのかなと思うのは、自分も20代後半から30代前半はぶいぶいしていたわけで、今の若い人を見ていると、ああ、若気でぶいぶいしているなとか思ってしまうし、そういう思いがあってぽろっと出てくる言葉というのに対して「エラそーに爺ぃ」とか思われるのだろう。が、反面、finalventってガキじゃんというのもある。
 で、毎度のことながら、歳取ってみてわかるのは、身体とか老いて醜くなっていくわけだが、心は、というか自意識の面ではあまり歳を取らない。これが非常にまずい。で、若い気でいるのかというと、その若さというのは、30年前の世相での若さであって、私の自意識の幼さっていうかガキっぽさというのは今の若い人には通じるものでもない、っていうか、そのあたりは、爺臭とか見えるのだろう。
 「もうなにも恥ずかしくはない」というのは、ちょっと違って、歳を取ると気付かずに恥辱感というのはなくなってくる。うまく言えないが、私なんてもう未来はないわけですよ。失われべき未来なんてない。すでに失われてしまったわけで。なので、恥ずかしいという心に矯める力がなくなってしまうわけですね。この先に老醜というのがあるなとしみじみ思うわけで、そのあたりは意識的に自覚してねーと。
 「思考停止」はどうかというと、これは微妙。まあ、人からそう見えるだろうし、ああそうなんだろうと思うのだが、私については、もう誰も理解してもらわかなくてもいいから、死ぬまでもうちょっとここを理解したい、知りたい、ということがいろいろある。もうちょっと言うと、歴史のなかに自分というのを位置づけたいと思う。自分はある日、ぽこっと巨大桃から生まれたわけではなく、しかたなかたんだよこの人生、歴史の必然みたいな。そのあたりは、鈍く極東ブログのテーマになっているのだが、まあ、そういうテーマを理解してほしいというものでもなく、一義的には自分の課題。
 あと。
 老いてきていると、当然、傍からは爺に見られるわけで、保守的な私はそう見られる安定性のなかに居たいと思うわけですよ。いや、それを簡単にいうと、若い女に手を出さないというか。出せちゃうほど自分中心になれないっていうか。そのあたりは、歳とったなあと思いますね。逆に、愛とかの精神性の意義みたいのが深まってしまう面もあるけど、そのあたりは現状のブログとかの言葉の世界にはなかなか出てこない。多分に文学的な言葉の地平なんだろうけど、そのあたりの文学の地平というのは出版=メディアの問題もあってあまり見えてこない。見えてこなくてもいっこうにどうでもいいといか、そのあたりは古書のなかに見えてくるものがあるのでそっちに引き籠もり。
 そう考えると、マジで自分の精神性というのは引き篭もっているのかと思うが……ま、こんなこと書いているわけですよ。