なんとなく

 ⇒ココヴォコ図書館 - 衆愚化は子猫の夢を見るか?

ある時期からブログに書かれていることって、凄くまっとうな意見が増えてきたように思う。というか、まっとうな意見しかいえなくなってきた、と言ったほうがいいかもしれない。僕らはいまやSBS他のツールに慣れつつあるし、そのいわば「検閲の目」に外傷的な反応はしなくなったけれども、深いところに内在化された監視の目になりつつあるような気がする。そしてその目はいまや「衆愚化」を指摘されるようになった。その時、僕らの内側にある「目」もまた、衆愚的なるそれになるんじゃないか。

 ちょっと心に触れるものがある。
 「内在化された監視の目」というほどのことはないのだが、これを言うと誤解されるだけだなというのはあまり言わなくなった。もっと言わなくなるんじゃないだろうか。
 黙っておくべきかこれは言うべきかというのが、だんだん、言うに疎くなる。
 私の政治的な位置は、ウヨサヨというよりこんな感じに近い。
 こんな感じ⇒finalventの日記 - 吉本隆明の後半生の戦いはソフト・スターリニズムとの戦いであった
 この問題意識はうまく通じないし、通じるとも思っていない。
 だからというのか、あまりBuzz makingなことをしてもしかたないかなとは思う。
 私を馬鹿だと思う人は多いだろうし、わざわざ言ったり陰で言う人もいるにはいるのだろう。ただ、私なんぞにそう思ったり言ったりするほどの意味はないんじゃないか。政治的な力もないし、未来もない。がんばる方向を間違えないほうがいいよ。
 私は自分を賢いとも思わないし、なにかの専門性の場から語りたいともまるで思わない。なので、そのあたりが衆愚に溶け込むのは大変によろしいとも思う。
 話が飛ぶが、吉本はその読者を四千人と見ていたと思う。そしてその読者とは銃を取る人だったはずだ。あの爺はいつ銃を取るべきか時代を睨み続けてその機会を失った。あるいは彼がボケ=自然=死を演じた迫力のなかに銃の気概が込められていたのかもしれない。そこにはしかしなにか大きな矛盾があるなと思う。
 私は自分が次第に老いていきながら、あんじょう、無になりつつある。銃とかいう思いもない。もちろんそれは歴史の意識がそうさせるものでもあるだろう。
 まあ、ただそれでも奇妙な孤独・孤立感のようなものはもう少し続くのかもしれない。