ワーキングプアというのに関心が向かない

 なぜなのだろうか。
 働いても働いてもカネにならないのはよくないというのだろうか。まあ、よくないか。
 子供の頃イソップ童話をよく読んだのだが、こういう話があった。
 サルが街を遠くから見ていると、誰かが表彰されて立派な勲章かなにか貰っている。サルもあれが欲しい。どうしたらみんなから評価されるのだろう、と。そこにクマがやってきて、サルに教える。一生懸命仕事をしたからだよ、というのだ。そこでサルは森の枯れ木を集めたりとかいろいろ一生懸命仕事を始める。でもやっぱり誰も評価してくれない。どうしてなんだ、と。そこにクマがまたやってきて、サルに教える。みんなの役に立つ仕事をしないとだめなんだよ。
 そんな物語を思い出す。
 主体的な労働と市場ニーズの労働は一致せず、現状では、市場側の理屈で仕事ができるわけで、みんなの役に立つ仕事=市場ニーズの労働かというと、まあ、そのあたりはごにょごにょ。ただ、それでもカネはそれなりの回りかたをするので、その回り方を見ないといくら働いても無駄というのはあるでしょう。
 というか。
 それ以前に、仕事というのは長くやっていないと仕事にならない。これには二つ含みがあって、1、長くやれば短期より儲けになるというか生活が維持できる、それでいいんじゃないの、2、長くやれる仕事でないと自分に返ってくるものがない。まあ、ご時世、長くやれる仕事なんてないという意見もあるが、所詮、世間は人の世なので、人は人に託する所多し、つうわけで、仕事の本当の基礎というのはそれほど変わらない(信頼の得かたとか)。
 なので。
 ワーキングプアというのは、まあ、個々人の能力とか運不運というのがあるのだから、そのなかで長くサバイヴできるように考えていくしかないのではないかと思う。
 というか、カネというのが対人的な意味を持つのは、孤独というのが足りないのではないか。カネで保てる対人関係というのは義理以上のものはなく、見栄張る人間というは孤独に敗北した人間であろう。
 不平等な社会制度を放置せよというわけではないよ。むしろ、自分の生き様と孤独を見据えた人間が増えるときちんと政治的な意見が出てくると思う。
 というか、こういう問題は自分を抜きにした最適ソリューションを求めたりそれに賛同したり従属したりするのではなく、政治なんざ自分の生き様の派生でしかない。自分がこの社会でどう軋轢がありそれがどう公義に関連するかはまさに生き様の場のなかでしかきちんと問われえない。