アカデミズム云々は難しいというかプロセスなのだというか

 私は30歳くらいまでアカデミックな思索のなかにいた。アカデミックというのは、ネットの世界などから一般に言われているのとは違って、とてもちっこいものだ。ただ、方法論なりは明確なので、あるcontroversialな問題がでても、それなりに対応のプロセスというものがあり、ある程度学派に分散しても、そうですかで終わる。
 なので、野の知識というのは、そのプロセスに耐えない。
 野人は面白い発想でも土俵に登れないようになっている。これは意地悪とかではなく、アカデミズムの持つプロセスの合理性の結果なのだと思う。
 ま、そんな話はどうでもいいのだが。
 たいていの学者卵は実際にはそのアカデミズムとの距離で生きていく。問題はそのズレかたなのだろう。かつてはその体系のなかでこそっと生きることができた。しかし今はそうでもないだろう。
 なんか当初書きたいことと話が違ってきたな。
 ま、自分にしてみると。
 父親の死の歳が自分の終わりだとすると人生あと12年といったところか。
 この歳になってみて、ああ、書籍が深い、この深みにあと10年で到達できるのかという焦りのようなものがある。そしてこの焦りは、アカデミズムのように方法論的な明瞭さは必ずしもない。
 日本人として生きてそれなりに考えてきたら、ある日突然、道元がそのまま読めた。なんでこんなことが起きるのかわからないが、古文と限らず、近代の文章も同様に読めることがある。そら恐ろしい。
 もちろん、私なぞ、無知な大衆ということでFAでなんら問題はない。
 ただ、なんつうのか、日本の先賢にヲイヲイ取って読めと言われているような感じはする。