マルクスの労働価値説

 あるいは剰余価値説とすべきか。まあ、きちんとした議論はさておき。
 私はポスト全共闘世代だし、出発点からしてアンチ・マルクスだった。最初からスラファ(Piero Sraffa)があるわけで。その後も森嶋とか読むに、マル経、ダメじゃんとかとか。
 ネットをひくとこんなものがある⇒ピエロ・スラッファ (Piero SRAFFA)
 あまりスラファの解説になってような。
 その後、全然関係ないスジから吉本隆明を読み出し、彼のマルクス理解に滑り込んだ。吉本はマルクスの大筋をけっこうきちんと捉えているものだと思った。ただ、依然、経済学としてのマルクスはもうどうでもいいでしょとも思った。
 ちなみに、ふとウィキを引くと。
 ⇒価値 - Wikipedia

交換価値
 交換(こうかん)は、経済活動の最も基本的な行動である。すなわち、物々交換も貨幣による売買も交換である。マルクス経済学では、交換される二財には、二つを釣り合わせる何かがあると考え、これを価値と呼んだ。交換は価値の等しい二財間で行われることになる。等しくなければ、どちらかが一方的に損をすることになり、いずれは交換が成立しなくなってしまうからである(等価交換の原則)。そして、これらの価値を測る絶対的尺度が、商品に投下された「労働量」である。価値は、抽象的人間労働によって生み出されるものであり、希少性や一時的な需要によるものでないとマルクス経済学では考える。(労働価値説)
 しかし、近代経済学から、労働価値説は資源配分をうまく説明できないことが批判された。例えば、熊が鹿の2倍の価格であったとき、労働価値説は、次のように説明する。すなわち、狩人が熊を一匹獲るのに6時間、鹿を一匹獲るのに3時間かかったからだと。しかし、この説明には大きな欠点がある、と近代経済学は指摘する。なぜ、狩人は鹿の2倍の時間をかけてまで、熊を捕らえたのだろうか。それは熊が鹿の2倍の価格だからではないか。もし、熊の価格が鹿の2倍を超えるのであれば、全ての狩人は熊を狩り、熊の価格が鹿の2倍を下回るのであれば、全ての狩人は鹿を狩るのではないか。つまり、各財への資源配分(ここでは労働量)の大小によって各財の価格が決まるのではなく、各財の価格が先に決まって、それに沿って各財へ資源配分がなされるのではないか、というのが近代経済学からの批判であった。

 まあ、私が勉強してころとさして変わらん与太っぽい。
 むしろ、森嶋のモデルのほうが致命的だったわけだが。サミュエルソンが言うように、剰余価値は利潤と同じことになる。
 まあ、そんなこんな。
 これも与太っぽいが⇒労働価値説 - Wikipedia

労働価値説の限界
 労働価値説については、オイゲン・フォン・ベーム=バヴェルクによるマルクス批判がある(「カール・マルクスとその体系の終結」1896年)。
 また、近年の第三次産業の発達により、生産物を生み出さない産業が増えてしまった。例えば、歌手やプロスポーツ選手が価値を生み出すのか。これについて労働価値説は経済学的に適切な答えを出しにくい。

 で。

使用価値と効用
 一方、近代経済学では、価値の根源を人間の欲求・欲望に求める。欲求は主観的なものであり、異なる個人間での比較のための絶対的尺度とはなり得ない。交換が行われるのは、相互の欲求に差異があるからであり、交換により双方が利益を得て(消費者余剰、生産者余剰)、パレート効率を達成する。
 近代経済学では、価値を商品固有の属性とは見なさないため、価値という用語の代わりに効用(こうよう)を用いる。効用は個人に特有で主観的なものであり、異なる個人の効用を比較することさえできない。そして、取引成立のための最終交換単位による効用の増加分(限界効用)が価値(価格)決定に大きな役割を果たすことを明らかにすることで、使用価値と交換価値を統一的に説明した。(効用価値説)
 価値の起源に関する新しい発見により、近代経済学は従来の経済学から独立し、発展することとなったのである。

 とかいうのだが。
 私は、しかし、大筋ではマルクスの考え方でよいのではないかというふうに、近年ぼんやり思う。もちろん、それがすでに「経済学」の文脈には載らないだろうが。
 労働≒搾取、というのは、他者への欲望とその介入の権限・権力≒汎用権力、という構図なのではないかと思う。もちろん、それが貨幣現象として現れ、それは近経のように振る舞うのだろうが。
 他者・欲望というものの交換の背後にある汎用権力というものが、貨幣と国家とどう結びつくのか。
 詩的に言えば、リンゴの価値とは、古典的にはリンゴを取ってくるまでの労働であったが、それはたぶん、リンゴを取らせるように人間をし向ける権力と欲望の対価なのだろうと思う。その意味で、リンゴもまた貨幣として現れうるのに、貨幣がまさに貨幣として露わうる権力の構図が本質的に埋め込まれているのだろうと思う。
 吉本は、国家権力の呪術性を共同幻想のなかに捉えた。それが間違いとか合っているとかいうのはさておき、私はそれは汎用権力というものの必然的な現れではないかとも思う。
 まあ、このあたりの考察については、栗本さんもすっかりあっちに行ってしまったし、ポランニも読みづらいしということで、時折ぼんやり考えるだけだが。