アフィ関連で

 先日、ニャー速関連撲滅関連の話を極東ブログのようにちょっと例外的に(わけあり的に)書いたが、そんときのツッコミに、アルファーブロガーとかいっても、マーケットわかってねー、話貧乏臭ぁとか、が、あった。
 いや、想定の範囲内、というほど、資料がないのだが、サイトが巨大化すると質が変わるわけで、カネの動きはさらに変わる、とは言える。
 が、問題は、そういう巨大サイトというのが、カテゴリから出てくるもので、ブログからはのし上がることがないんですよぉ〜。
 マーケット・カテゴリーがあってそっからブログっていうならありえるけど。つまり売れゲな領域をきちんと当てる、と。
 逆にブログだと、まあ、率直に言っていいでしょ、有名人とか作家のブログも、転けているわけですね。なぜ転けるかというと、有名作家とか言っても、天井村上春樹で30万人ガチでしょ。池澤夏樹+先生+書いているブツはライター+左翼的良識+インテリとかぺとぺと足してなんとか2万から4万。ほいでも、ブログは儲からないというか。あとは推して知るべきなわけで、とりあえず初版が捌けそうところで4000部つまり4000人ガチじゃ、いわゆるアルファーブロガーに落ちるわけで、はっはっはなわけ。
 逆に言えば、出版界のほうが、まだまだ強い。既存広告とか、新聞とかいう広告とか。テレビに至っては王様(俺は見ないけど)。
 逆にだからブログっていうものの意味がまったく違っているわけだ。
 またまた吉本隆明になってしまうが、彼の80年代の言論、つまり、高度資本主義と文学の関係、それは高度資本主義が表現者を助けるという展開。往相。
 そしてその後、90年代で、還相として、高度資本主義社会が表現者を食わせないという課題があった。社会がどう表現者を守るか。
 その点で言えば、吉本が惚けてなければ、ブログはソリューションでもあった。チープ革命
 だから、ブログが食えない、あるいはブログなりと広告というので、吉本80年代的な往相のありかたは、まあ、歴史的にはケリがついた問題だとはいえるし、現状は、かなり安定している。
 問題は、この安定が、持久戦的に表現者のもつ力を社会に解放するか?というと、これはむしろ60年代70年的な課題で、いわば社会主義プロパガンダや啓蒙が社会を変えるというのとエリート主義との結託なわけで、これは、だめよーん、というのも歴史的にケリがついた問題ではある。
 ま、現状の課題としては、安定しているとはいっても、食えるレベルではないというのはあるので、そのあたりまでボトムが上がるか。
 いや、こういうとなんだけど、雑誌・新書評論家さんていうかジャーナリストさんたちより、finalventさんが食えたら、この問題は、一気に終わり。まあ、そういうのが見えない。そりゃ、クオリティの問題だよとかいうのは、finalventは比喩を理解してねーな、と。俺なんかどうでもいいよ。