天才とか……

 自分は天才だと思っている人がけっこういる。こっそり思っている人もいる。
 言うだけ馬鹿みたいだし、誤解されるだけなんだけど、戯れに言うと、私は多少天才である。多少というのは、天才というのは、自己の内部の他者ということで、自己が自己であろうとすることに介在してくる強烈なものだ。英語のgiftedみたいなもの。とりあえず、だから、天才性とでもいうか。
 それは、自己にとって外来的な性質をもっている。
 棚からぼた餅というか、降ってくる。あるメロディが、ある色彩が、ある構図が、ある着想が……。ただ、自己へぼたんと牛糞のように振ってくる。
 それに自己が従属してしかも社会にある影響力を持つ人が、いわゆる天才だし、およそ天才というのは、美人と同じで社会側からのある特異な評価そのものである。な・の・で、私は天才だというのはほとんど狂人に近い。あるいは馬鹿だ。私は狂人ではないので、私は天才だとは言わない。でも私は馬鹿なのでそう言ってもいいかもしれないから、多少と限定して戯れに言うかもしれない。
 私の心のなかにも奇妙なものがときおりぼたんと降ってくる。ああ、これは天才性というものなんだろうなと思う。ただ、それと私という自己の関係を私はうまく調和できなかったし、私の場合、実は無能とかADHDみたいなものを覆っているか補償しているかわからないが、そうしたものを自分のためにうまく使うことができなかった。
 というか、やはり狂気に近い。私は、いわゆる天才の伝記だの文章を読むとその外来性との苦悩みたいなものがばっくり開いているのがわかる。
 ぼたんと降ってくるというが、そうでない場合もある。静かにListenすることだ。それが、小さな声で恥ずかしげに語るのまで静かに待つ。とても、孤独でなくては聞こえない。そういう孤独にじっと縮込んでいたこともある。最近はあまりそういうこともない。非難ではないけど、多くの人に天才性が欠如しているというか、天才たちの餌と化しているのは、孤独に耐えられないからだと思う。というか、孤独であること孤立していること死というものの震撼するドアの開きかたというのと天才性の語りというのは、関連している。あるいは、弱さというものに関連している。己が完全に弱いというときにだけ、「彼」がそこに立つ。
 静かにListenするというのは、木々についてもそう思う。私は、これも言うと狂気だが、木々などと語ることができるといえばできる。そういう心のチューンの仕方を少し知っている(子供のころに自然に覚えた。普通のことだと思うが)。でも宇宙人とチャネリングとかしない。他人の心に対してListenすることもあまりしない。
 人の心というのは、とても、恐ろしいものだということを、知っているから。
 あるいは、人生の初期設定が孤独で愛というものがうまく得られなかったからかもしれない。まあ、愛というのはそういう人生の前提に与えられない人でも、それなりに得られることはある。私などはその部類だろう。ふと思うのは、そこにも「彼」が立っているということかもしれない。恵みは十分である、と。