旧約聖書を読むということ
ま、物語として読んでもいいとは思う。
そういえば、手塚のアレも以前見てないな。アレ⇒「ノアのはこぶねアニメ絵本 手塚治虫の聖書ものがたり: 本」とか。
山本七平さんに直接、聖書ってどう読んだらいいのですかと若いときに聞いたことがある。答えは読めるところから読みなさいであった。そりゃね。
ユダヤ人もイスラエル人もという言い方は変だが、聖書の話はある意味で神話のように捉えられている。というか、年中行事でシェマー!だからもうそりゃこってり、と。
ただ、聖書というのは、というか、モーセ五書というのは、神話ではなく、神話的な形式をもった、法源なんですよ。で、これは、イスラム法にもそのままそ。そのままというのはちと言い過ぎだが、法源であるのはそ。正確には(たぶん正確には)、クルアーン、ハディース、イジュマー、キヤースと続くが、クルアーンの内部に必然的に織り込まれる部分がある。ま、このあたりは難しいか。サマリタンとかも五書を持つがとか云々。
で、いずれにせよ、モーセ五書は法源なんで、そういう視点を持たないと、新約とかイエスの行動も理解できなくなることが多い、と、お・も・う。
もっとも、史的には、モーセ五書はエズラの時代あたりに出来たのではないか。ま、いろいろ思うことはある。
あと、西洋における旧約聖書的なものは、実際には旧約聖書ではない。西洋絵画や文学の背景を知ろうと思って聖書に取り組むとけっこうはずす。というか、例えば、こーゆーのは理解できない。こーゆーの⇒ピカルディ地方 写真(10680013)
っていうか、聖書なんてものが読めるようになったのは、グーテンベルク以降のこと。読めるようになったから、キリスト教2.0みたいにプロテスタントというかデノミネーションズが出てきてしまった。以下略。
あ、補足。読むというのは、どうしても、読む=解釈、な、わけです。で、それ以前は、解釈が平信徒には許されていなかった。