恋愛というのは語るだけ嘘に見える

 というか、ただ他人事として語られる(文学とか)というもの。
 なので、語ることに不可避に矛盾がつきまとう。
 例えば、私が恋愛に語る……じょじょジョーダンでしょみたいな。でも、ちょっと語る。
 恋愛というのは、この世ではうまくいかない、ということを本質としている。どうせダメなのに成就しないのに、どおしてどおしてボクたちは出会ってしまったのだろ♪みたいな意識を二人だけの対の意識性(幻想性)に起こす。
 で、その、この世ではうまくいかないという確信が、世界を棄却してしまう。周りじゅうを傷つけても会いたかったあの気持ちをなんと言うの♪ということを引き起こす。世界が間違っていて恋愛が正しいという確信をその二人の意識のなかに起こす。
 と同時にその確信にある種の先験的な敗北感も意識させる。玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする〜〜パチっ、ってことで、恋愛がダメなら生きている意味なんかないのだし、身体だけがこの世に生きていても意味もない、なのに、弱りもぞする、ということでへたれていく。
 恋愛は、そうして終わる。世界が、世界を超えようとする意識を、世界の側にある身体=肉体を使って復讐して終わる。
 まれに恋愛が世界に復讐して終わることもあるが、当然代償として、 身体=肉体が失われる。道行きである。道行きなんて言葉現代ではないでしょうね(厳密は心中だけではないけど、心中という言葉もないか、あはは)。
 かくして恋愛は人を灰にする。この世に生きる意味なんかないのだということがテッテ的に意識されるようになる。
 でも、それが生きるということだし、愛情というのは、その先にあるような気がする、ということで私なんぞはだらだらだら生きている。
 というか、灰になってよいのだと思う。
 それを避ければ、大切なものをこの世のために、引き替えに失うことになる。多くの人が人生のなかで自分だけに大切だったものを自分自身なんて大切な存在じゃないからという自暴と狡賢い生存戦略で捨て過ぎている。
 あるいは、いつまでも焼き残った反復(恋愛ごっこ)を繰り返す。
 なぜ、この世界より正しいものがあるなんていう確信が人間の意識のなかで発生するのかよくわからないが、灰になった人間は、この世の価値(富と権力)をその究極において灰と見るようになる。