genocideっていうのは鳥インフルエンザ対策みたいなもの

 10年くらい前だったか、台湾で口蹄疫病が流行して豚を随分始末したし、私も税関で中華ハムとか取られちゃったし……そんなことはどうでもよい。
 で、鳥インフルエンザもそうだけど、あれって、一羽でもウイルスっていうか黴菌っていうかに感染したら同じ施設のを全部殺してしまうのですよ。そうしないと、さらにひどくなるからここの施設の同類は全部殺せ、というわけです。汚染の概念に近いかもしれない。
 で、これって、家畜とか放牧する民族にとっては、ごくごく当たり前のサバイバルの知恵なんです。
 で、これが人間に適用されるのがgenocide。というか、genocideの原型。現代の国際法上のgenocideの基礎ということではないので誤解無きよう。
 ほいで、この原型的なgenocideだけど、思想とか血とかが、ウイルス・黴菌のようにみなされ、それに同舎というか同類は全部殺せというわけです。(農耕民だと稲が病気になってもケアが基本だし、その部分の除去が基本。)
 ある意味憎悪とかじゃないんですよ。そんな情緒的なもんではない。ポイントとしては計画性。この点については現代定義のgenociedeも引き継いでいる。
 で、この原型的なgenenocideだが、家畜とかあまりしない農耕民族にはなじまない発想ですね。ただ、農耕には家畜がつきものなのですっぱりは切れないでしょうけど。(ちなみに、遊牧民にとって富が増えるというのは家畜が殖えるということで、家畜が殖えるっていうことは、せっせとおせっくすということで、そのあたりは情緒というものがない。「せっせと」がポイント。農耕民族だってそれで増えるのだしね。で、彼ら遊牧民自身も部族はせっせとおせっくすことで増えている。血統(貴種)は問われる。これに対して、農耕民は作物が増えるように、植物がその気になるようにそそらせるてことでおっせっくす見せたりとかその手の神事とかする。やってることは、薄目で見ているとけっこう同じだけど、農耕民は作物収穫が基盤になって人が増える。せっせとおせっくすで増えるというわけではない。以上は括弧内の話で余談。)
 日本史を見ると、これに類するのは信長かなとも思うけど、そのあたりの史実は今一つわからない。彼は血にこだわっているふうはあまりなさげ。っていうか、むしろ、信長と秀吉の血にこだわったのは家康。でも、家康も古典的。
 むしろ平家物語とか見ていると、貴種(血統)を絶やすということに重要性を置いていた古典的時代があるようだ。(たぶん、山背王とか長屋王はそれ以前の皇統の血を絶つ事件だったのでしょう。このあたりの史実は十分に解明されてなさげ思えるが定説ではないので括弧に入れとく。)
 でも、その後の日本を見ていると、日本には血統原理はない。家の名がつながればいいだけ。基本的にま○こ娘を家に用意して、交換したり、タネ男をゲットするっていうのが基本で、権力っていうのは、その場の空気とゼニでだいたい決まる。まったく血統に関係ない夫婦養子も多く、これは儒教圏では異例。
 っていうか日本では正義と殲滅の発想はなさげ。血は実際には問われないある種の現実主義の国民が日本のように思える。
 ⇒きっこの日記 「アングロサクソンの血」で検索
 ↑こういう発想は、ヘイトサイトっていう以前に、日本人的じゃないなという印象はもちますね。これを妄想的に広げることはしませんが、為念。
 
追記
 関連⇒物騒な話題の雑感 - finalventの日記