言葉とか日本語を愛するかという人間は、なぜ生まれ出る新しい言葉の誕生のその場に驚愕しないのか

 と、思う。
 古い人間は古い記憶ともに順々に消えていけばいい。
 それが歴史となって、新しい人の知恵=鏡になれば、もっといいだろうが、それを見つめる人というのは社会のごく一部だ。大衆は歴史を乗せていくがそれを自覚的に意識はしない。
 美しい言葉があるのではなく、人と人の関わりの場面の美しさが言葉のなかにsettleする。だが、新しい人間の関わりはどうしても古い言葉をつきやぶっていく。そういうものだ。
 もうちょっと言う。
 美しい言葉より、快活な言葉だ。
 私たちを快活に笑わせる新しい言葉をもって、新しく笑うことができるだろうか。そしてその笑いのなかに連帯の思いを込めることができるだろうか。
 そうしたチャレンジを無意識に若い魂が新しい言葉で実現していくのだ。