寒い日はさぶいぼ
なぜ「生きた言語」がネット上の、しかも特定のサービス利用者が使用するそれに限られるとおっしゃるのか、皆目理解が出来ない。
というか、古参のネットワーカー特有の選民意識を久々に目の当たりにして鳥肌が立ったよ。
これの反応⇒finalventの日記 - 読売社説 [日本語ブーム]「言葉への感性を大切にしたい」
で。
「特定のサービス利用者が使用するそれに限られるとおっしゃるのか、皆目理解が出来ない」のは、そういう限定をして理解しているのが間違いだから。
2ちゃん語はいま2ちゃんのサービスに限定されずネットにあふれている。
「なぜ「生きた言語」がネット上」なのか。それは、私たちのコミュニケーションがそのように変化したから。
なぜ、ねらーがねらーの言葉を生み出すのだろう、と、なぜ考えないのだろう。
言葉が先にあるのではなく、言葉をつむぐ人が先にあるのだ。
敬語が廃れたと嘆く人間は、言葉の形式を嘆くのではなく、そのような言語が生きる人間の関係に嘆かなければならない。しかし、そうはしない。そうしない理由は、そのように嘆く人間が、人と人の関わりを言語に写像・疎外して思考しているからであり、つまり、それ自体が人との関係の遮断の兆候でもあるからだ。
人は、若い人は、その押さえられないコミュニケーションの欲望を持つ。他者への欲望だ。それがどのようなチャネルであふれ出すかが社会のありかたを規定する。
今の社会は、人と人の交流という点では抑圧的な社会になった。だから、ネットのなかで言葉があふれ出しているのだ。
もちろん、それがすべてではないだろうけど。
「古参のネットワーカー特有の選民意識」……選民とはその歴史的な言葉の由来を考えればユダヤ民族と旧約聖書を思えばいいだろう。選ばれるというのは、残されるということだ。私はなぜネットに残されているのだろうかという限定の意味ではある種の選民であるかもしれないのだが。