あー、野暮を承知で明からさまに内田樹の悪口を書きますよ

注:このエントリ、ちょっと訂正・補足します。

 ⇒内田樹の研究室: 捕虜と戦陣訓

しかし、日本軍の捕虜たちはそうはしなかった。
彼らは捕虜になったとたんに人格を一変させてしまったのである。
ベネディクトが驚いたのは、これほど「勝者に媚びる捕虜」たちを見たことがなかったからである。
捕虜たちは嬉々として自軍の内情、兵の配備状況をことこまかに具申し、中には米軍の偵察機に同乗して、「あそこが弾薬庫で、あそこが司令部です」と逐一報告した兵士さえあった。
この変節の理由は簡単である。
戦陣訓がいうとおりに「勝敗は皇国の隆替に関」するというのがほんとうなら、皇軍が負けるということはイコール「皇国は滅亡した」ということである。
ならば皇軍を打ち破った軍隊こそが「百戦百勝の新たなる皇軍」であることは論理の経済が私たちを導く合理的結論である(現にその論理に従って、日本は戦後60年間アメリカに仕えてきたではないか)。

 この人、本当に、馬鹿だ。
 まず、日本軍について体験者の本でも読めや。
「私の中の日本軍 (上)文春文庫 (306‐1)」
「私の中の日本軍 (下)文春文庫 (306‐2)」
「一下級将校の見た帝国陸軍(文春文庫)」
 一般論でいうと、「皇軍」とかいう表現を使うヤツは、総じて、つまり、左右ともに、馬鹿。当時はそんな言葉実際の軍では使ってなかった。ってか、「皇軍」というのは戦後の幻想に等しい。
追記
 コメント欄にてjounoさんより、できれば体験者の本を読むとどういう風に結論が違ってくるのか、たとえば、日本軍捕虜は別にそれほど欧米と比べて変節したわけではない、ということだけでも書いていただけるとありがたいです。」とコメントをいただく。
 確かに、馬鹿というだけではいかんかと思う。それと、上三冊では案外カラクリ自体はわかりづらいかもしれない。
 簡単に言うと、日本軍の軍人たちのノルム(規範)の実態は戦陣訓などではなかった。そのあたりの話は体験記を読まれると実態がわかると思う。もちろん、この体験記ですべてがわかるとは言わない。少なくとも、体験記を読むことでその実態像に迫ろうとする思考のありかたが問われる。次に、日本軍捕虜だが、ノルムを欠いているために、状況に依存し、その状況において「和」の状態を作り出そうとする。身近な人間関係のにへら笑い的状態をもって危機を遠隔化しようとする。これは現代日本人でも同じ。戦前の軍人たちと私達現代日本人のノルムなきにへら笑い的和の志向にはなんら変わることがない。
 特に捕虜軍人達は、捕虜で命を助けてもらっている恩義を感じている自分は良き人間である(だから良い人間だから殺さないでくれ)という、その証明の衝動に駆られていた。それ、つまり、自身が無私であること(ワタクシゴコロなきこと)を証明しようとして、結果的に媚びるように外人に見える。日本人の社会的な基本行動の原理となる自己が、その自身によって規定されておらず、状況の中の他者によって規定されているため。