私は人種差別をさらに増長するような話を書いているか

 あまり思い当たることがない。それこそがまさに人種差別的な無意識の問題である可能性はある。
 今日のエントリでいえば、以下の部分が相当するのだろう。

 町山さんがコリアン系であるかというのは本人の意識にしてみればたまたまそうと以上ではなかろうし、他人からそう言われても返す言葉もないだろう。それはそこまでだ。
 私の場合は、純ジャパであり父方祖母の系統は近衛兵の家柄でもあり父方家系も武家、母方は土豪でありどうもこれも武家の土着のようでもある。そういう感触は奇妙に自分が生きつつフィードバックを受けてしまう。そういうフィードバックの有無にどんな意味があるのかわからないが、そのあたりは微妙だ。ある意味、私は個人としては自由には生きていない。というか武家の生き様には腹かっぁばく以外の自由なんかないという逆説でもある。困ったものだ。

 町山さんがコリアン系であり、私が純日本系であるとする。そのことは人種差別でもなんでもないだろうと思う。
 そしてそのことはどうかと問われても、町山さんも私も答えられるものではない、と、私は言いたいのだ、それが、そういう部分で、個人で自由に生きていないということだ。私は純日本系としているのは私の選択ではない。
 そういう選択ではないものが理由で私は天皇に敬慕の念を持つ。コリアン系のかたと限らずそういうふうに天皇に敬慕の念を持たない人もいるかもしれないが、そのことは日本人でえあることの条件には関係ない。自由の範囲だ。むしろ、天皇に敬慕をもち、純日本系だという自己認識というのは不自由なものだと思う。